思い出はどこへ行くのか? ― 2004.12.04 ―

討論


科学技術を推進させる権利とは

佐藤 塚本さんの発表について、菅原先生からコメントをいただけますか。
菅原 塚本さんのお話は半分冗談だと思って聞けば、あんまり硬派なというか厳しいことをいうのは大人げないとも思うんですが、でも私の感覚では悪夢のような世界だと思うんです。
 SFってサイエンス・フィクションっていっていましたけれども、むしろスペキュレイティブ・フィクションですね。思弁小説という風にいった方がいいと思うんです。たとえば最近読んでとても面白かったグレッグ・イーガンという人の『宇宙消失』というSFでは、ナノテクノロジーが進化すると、モッドというナノマシンができる。それが脳にいくと脳の神経結合のどこかを変えてしまうわけですね。そうするとたとえば警察官モッドというのは絶対修羅場でも興奮しないとかね。一番すごいのは忠誠ポッドというやつで、組織に忠誠を誓うことが幸福で幸福でたまらないとかね。塚本さんのシナリオというのは究極的には脳の中になにかがじかに産出される、その方向だと思うんですね。本当に優れたSFというのはある種の黙示録なんですね。人類の滅びというものをきちんと予測して、その人類の滅びを非常にリアリスティックに描くというのが私はSFだと思うんですね。そういう意味では塚本さんのお話は、SFの比喩でいうと、スターリン時代の御用SF作家が書いたバラ色の未来SFというもので、作品としてはあまり優れたものとはいえないと思います。
 それからこれはもっとしょうもないことなんですが、コンピュータ画面のそこいら中に登場するペットというやつなんです。私はこの一〇年間、模範的な愛犬家をやっているので、そんなものより実物の犬の方が絶対に一〇〇倍もすばらしいと思うんですけど、敢えてその話に乗るとしたら、その発想自体がある種小市民的な抑圧を受けていると思うんです。だってそんなことできるんだったら、我々が一番欲する快楽はいつでもどこでも性交できる相手。別にそれは異性でも同性でもいいんですが、つまり科学技術のこういった形の進歩というのは、一般大衆の快楽を一番満たす部分ではセクシュアリティをどうやって技術によって補うかということに行くのが当然だと思うんですけど。そういうことをきちんと論じたコンピュータ学者を見たことが見たことがなくて、これはある種の抑圧がかかってるんじゃないかと思っているんです。
 そこで質問なんですが、がらっと硬派になって恐縮なんですが、私達の学生時代に全共闘運動というのが戦われまして、私の学友達の多くは全共闘に所属して果敢に戦って敗北したわけです。そのときに戦われたテーマというのは、科学と国家権力との関係という問題設定で、それは私は今でもまるっきり正しいと思うんですね。つまり科学技術を推進させるエリート集団は、人間の幸福というものの青写真をどういう権利があって誰から委託されて構想するかということですね。つまり私の考えるところ現代の科学技術というのは、デモクラシーの根本原理である社会契約という原則に反していると思うんです。だって誰も契約して同意したわけではないのに、科学技術はなんのチェックも受けずある時突然、人びとの生活を変えている。そしてそれはほぼ一〇〇パーセント国家権力と産業資本主義の結びついた形で行われる。おそらくこれがどんどん進行していくと、もうそれは始まっていると思うんですが、ある種の知能による階層分化が固定化すると思われます。象徴的思考とか記号操作とかに長けた少数の人達が大衆にとてつもなく退屈な人生を与えて、そのとてつもなく退屈な人生を子供だましみたいなたくさんの仕掛けで維持させる。つまり私が聞きたいのは、科学技術を推進させる側はいついかなる根拠があって人間の幸福というものを構想できるのかということですね。
塚本 最初におっしゃっていたSFと比べると大したことないという話ですけれども。まず、私の予言はSFじゃないんです。最初にもいいましたけれども、技術的に難しいことというのはいっさい入れてないというところがポイントです。ゲノムとかナノとかロボットとか全部入れていなくて、とにかくコンピュータが小さくて速くなればできるということだけで構成しているというところが、私としては注意した、ポイントとしているところです。だから世の中が動けば、必ずこういう風に動くという方向性を考えて予言という言い方をしています。
 それからご質問なんですが、これは私がお答えできるような問題ではないので、なにかすごく狭い範囲でのお答えになっちゃうかもしれないですけれども、世の中が資本主義の、妙なお金中心、ビジネス中心のロジックで回っちゃっている、我々の暮らしというものが回っちゃっているというところはあると思います。その方向というのも何がよい何が悪いっていうのすらまだわからないと思うんですけれども、それから望む望まないにかかわらず進んでいっちゃう。ビジネスが乗っかる方向に進んでいっちゃうんだと思います。
 ただここ一〇年のインターネット、コンピュータっていう仮想の社会、サイバーな社会っていうのは反身体性っていう意味で、ほとんど全ての人が嫌悪感を持つような社会の方向性というのが見えていたと思うんですね。「マトリックス」が描く社会というのもたぶん反身体性というところにつきるんだと思いますけれども、私が主張したいのはそうじゃない。これから一〇年っていうのは我々が身体性を伴う活動というのにすごくコンピュータというのが入り込んでくるんだという意味で、身体性を我々が取り戻すといういい機会なんじゃないか。この一〇年で進む部分進まない部分あると思うんですけれども、その過程でたぶん我々技術者の側は大事だと思う技術というのは開発できるチャンスにあると。それから行政はビジネス・ロジックで突き進んでいく前になにか規制なり行政の手法を使って食い止めるという手段はあるはずだと思います。私が描いた絵というのは一つの案であって、コンセンサスがそれほどあるわけじゃないですけれども、ああいう社会というのは一〇年のスパンで本当に広まっていくと思います。その際に人間にとって何が大切で何が豊かで何が豊かでないかというのはみんなが考えるべき問題であるかもしれないですし、我々が考えるべき問題であろうとは思います。そこは今の時点では私自身はもちろん答えをもっていないということをお見抜きだとは思うんですけれども。
菅原 家にある上着が全部チップ付きで、妻がいつも私の所在をわかってしまったら女の子とデートすることもできないじゃないというのがまず一番の心配。(笑)その心配というのは、チップ付きの上着を監視しているのが妻だったらまだのろけの範囲ですむかもしれないけれど、それが国家権力が全てチップ付き上着の管理塔みたいなものになると、本当に悪夢の世界だと思うんです。
 私の提言としては、今はきわめて未成熟な、いわゆる科学技術の進歩に関する倫理委員会ですね、日本だけでやったら国際競争に遅れるから、もっと全世界的に科学技術の進歩のどこまでが本当に人間を幸せにするのか、どこからが危険なのかというものをきちんと立ち上げていく努力を科学技術に携わる側の方々もやはりお考えいただかないと。というのはつまり、もし科学技術の、いわゆる進歩といわれるもの自体に、資本主義原理以外になんの枠もないとしたら、おそらく人類はそれほど遠くない未来に 滅びるであろうという計算はあるわけですよね。そこら辺はやっぱりもっと真剣に考えないといかんのとちゃうかなと思うのです。



人間にとって幸福とはなにか

佐藤 菅原先生のご質問はたぶん科学技術者にある意味自覚と倫理を求められているんだと思いますが、私がこの研究会を立ち上げた理由も、これを突き進めることによって、たとえばメディアが一〇〇チャンネルになるとか、あるいは全ての人間がメディアの権利を持つことによって逆にメディアの呪縛を解いていくのではないかという方向を考えていたんです。ただ菅原先生はたぶんその先に見ているのが一種のアナキズムによる改革とされているから、かなり強固な社会的なイメージを持っておられると思うし、私は逆にその社会的なイメージがもう少しなし崩しに壊れていくというイメージを持っています。
野島 僕も塚本先生の話は、非常にひどい言い方をすると脳天気だと思うし、もう一つの言い方をすると非常に面白い話だと思う。現実問題として、一年後、五年後というのはないと思うけど、塚本先生がやられているような、HMDをくっつけるかどうかは別として、みんなが常時なにかを画面で見ているという時代は間違いなくなってくるだろうと思う。すでにたとえば携帯をもっていればかなりのところまでどこにいるか掌握されちゃっている。それから車に乗っていたら間違いなく自分はどこにいるかというのは掌握されている時代になっちゃっている。そういうようなときに、たとえば企業の中にいる心理学、社会学の研究者に何ができるのかとか、あるいはたとえば二〇年前に何ができたのかということを考えたときに、いろいろ反省する点はあるんですけれども、次を構築するための一歩というのは実はあまりよくわからないんですよね。だから倫理委員会っていうのは一つの手だとは思うんですけど、それはやっぱり話をもう一つ先送りしただけに過ぎないような気がするんですけど、そこはどうお考えなんでしょう?
菅原 ウェブ社会に非常にポジティブな未来像を見る人達は、これがいわゆる草の根民主主義であり、学校を初めとするいろんな管理的な制度を解体してしまう。そういう意味ではアナキズムと言っていいのか、リゾーム型社会というんですかね。中枢権力のないリゾーム型社会。まさにポストモダンを実現するものだという形で非常に肯定的にとらえるということは確かにわかります。だから可能性として一体どっちに転ぶのかはまだ未知であるというのはその通りだと思います。
 確かに倫理委員会というのも、自分であまりに陳腐だなぁと思いながらつい口走ってしまっただけで、そういうものが本当にいいと思っているわけではない。私は、現代のインテリをダメにしている考え方というのは、いわゆる文化相対主義っていうやつだと思うんですね。それぞれの文化でそれぞれの価値観はそれぞれに違うんだから云々かんぬんですね。それをどうにかしないと、人間にとって幸福とはなにかというような問題というのは答えが出ないんですね。そこで超素朴な、少なくともこれは人間にとって幸福だというリストアップぐらいはできると思うんですね。アメリカの認知言語学者とかがいっていることなんですけど、それはたとえば病気であるよりも健康である方がいい。孤独であるより仲間といた方がいいとか。人にコントロールされるよりは自分で行動した方がいいとか。打ち倒されるよりは立っていた方がいいとか。そういったまさに身体経験のレベルで絶対ウェルビーイングの条件というのはあるという形で、普遍的なウェルビーイングの定義というのを、それがもし人文学者の使命だったらきちんと作っていかなければいけないんじゃないか。もう一つ強調したいことは、でもやっぱり歴史に学ばなくてはならないわけで、人間にとって一番どうしようもない不幸というのはやはり近代においては国家がもたらしてきたと思うんです。ですから、どんな幸福論であれ、最終的には国家権力の無化を目指すのが正しい道であろうと。突然過激になりましたけど。(笑)



ホモサピエンスの根本的限界

佐藤 菅原先生に質問なんですが、自分の夢というのは他者にとってはほとんど意味のないものである、確かに。だけど自分の夢を語ることは自分にとって面白いというのがある。今現実にこの世の中で自分自身のことを語るということが流行になっている。そのことをどう理解していくか。どう肯定的にとらえていくか。自分自身にとって楽しいということを、それを否定する理由はどこにあるかということですね。それをどう生産的な将来に結びつけていくかということは、この研究会そのものが抱えている初めのテーマ、想い出という個人を対象とすることをどう意味づけていくかに関わるんだと思います。
菅原 今のすごい流行は「自分探し」とか「本当の自分」とかというテーマだと思うんです。それは端的に言うと、実に浅はかだというのが答えだと思うんですが、それはいわゆる認知科学の中の身体化された心の理論 "Embodied Mind" という本が日本語にも訳されていますが、あれなんかが主張しているように、私達が自分だと思っている自分というのは、巨大な身体化された心のほんの氷山の一角で、実は私達の存在を支えているのは膨大ないわゆる認知的無意識というやつで、その認知的な無意識の流れと自分の実践の中で巡り会うことが重要であって、小さい自分のことにくどくどこだわってもしょうがないんじゃないのというのが彼らの主張だと思うんです。私はその主張に深く共鳴するのですが、ただ実際にそういう身体化された心を取り戻すために何かをやれというと、彼らはそこで神秘主義に走っちゃうんですね。つまり禅の瞑想こそがという話になって、そこで私はとても失望した。禅の瞑想が、身体化された心を取り戻す一番の手段だとしたら、仏教が発明されてから何千年もたつんだから人類はもっと昔からマシになっていていいはずなのに実はそうじゃないというのは、やっぱりそういう宗教的瞑想とかいう話にどんどん落ち込んでいくところに、私はある種のプチブル的限界があるんじゃないかと思う。だからもっとありきたりの世俗の実践ですね。労働であるとか。そういったものの中で身体化された心を取り戻すということの方を考えなくちゃいけないんじゃないか。
野島 自分探しをするような価値観の体系とか、それを裏書きするものというのはどこにあるのかとか、そういう話というのは文化人類学とかそちらの方からは何か出ているんですか?
菅原 私は私の思考の試金石としての我がグイ・ブッシュマンのことをつい思ってしまう。それは子供を作ることができない今の日本と比べてという話で考えると分かりやすいと思うんですが、具体的に私達の社会が落ち込んでいる一番の問題はやっぱり核家族への閉塞ということだと思うんですね。しかもその核家族に閉塞していることと、他者から自分を差異化することによって生み出される商品価値とがジョイントしているから、その競争に敗北した人は救いを求める回路は全部遮断されていて、引きこもったりということがあると思うんですね。だけど、いわゆる私達が伝統社会と過小規模社会とか呼んでいたものには、たとえば子供を別に核家族だけで育てるわけではないというような、たとえば女性親族同士の強固なつながりであるとか、あるいは弓矢猟の達人だからといって決していばらないというような、簡単に言うと権力の無化ですね。権力の集中を常に脱臼させるようなさまざまな文化的仕掛けだとか、そういった形で人間が普通に生きることの偉大さというのが別に口で言わなくても最初からわかっているというところは私達の社会の中でもたぶんある形では回復させられることだと私は思うんですけど。
 私は一方で昔はサルをやっていたので人類進化というのをかなり長いスパンで考えるという癖もあるんです。そうすると人類の進化というのは決定的な限界を持っていて、SFめきますが、それは私の意識が私の頭蓋骨の中に閉ざされているということだと思う。だから人類進化論SFっていうのはいくつもあると思いますが、どのSFも人類進化の次の段階としてねらっているのは意識の融合ですね。Aの意識とBの意識が融合するという。これは普通の形での霊長類の進化ではもう決してありえないことなのです。だから自己他者関係あるいは自己と他者をどう差異化するか、どう独自な自己を見つけるかとかいった問題全てがやはりホモサピエンスの根本的限界の中でしか解決されないことだというのが肝に銘じておかなければならないことだと思うんです。



不死であるがための堕落

安村 我々の周りにはすでに近代の道具があって否応なく使ってしまうときに、そのことによって人間の意識とかが変わってくるんじゃないか。先ほどの表象化の手段でいうと、たとえば今インターネットで日記を書く、ブログも出てきていますから、そうすると従来日記は自分しか見ない、まぁせいぜい死後とか限定された人しか見ないのが、日記を書くという行為を通じて、身の回りには理解者は誰もいないんだけれども、インターネット上ではいろんなコメントが返ってくる。その中で自分と他者というか、新しい関係が生み出されているような気がするんですけれども。そういうことに関してはどういう感じで思われるんでしょうか?
菅原 今私は結局のところ、異なる意識が融合するということがない限り人類進化というのはやはり最終的に大きな上限を背負って、そこで自己他者関係というのを考えるしかないといったんですが、それとちょっと違うイメージがいわゆるサイバーパンクだと思うんですね。イメージ的にいったらここにソケットつけて、サイバースペースと融合し合う。そうすると自己の境界というのがものすごい拡大しますよね。そこで私は面白いと思うのは、たとえば「JM」という映画では、そのサイバースペースを読む時にまさに身体動作でそれをやるんですね。そのサイバースペースを開くこととか、それが全部身体化されたものとして表現されているのにとても愉快さを感じた。「マイノリティ・リポート」でも、まさに体を使って操作していましたよね。だからそういう原理的には頭にソケットを付けてサイバースペースと融合するということはおそらく可能だと思うので、そういう意味での意識の拡大、そういう意味での考えもしなかった社交の可能性といったようなことは、もちろんそれほど空想的ではなく考えることはできるんですけど。
安村 サイボーグってありますよね。一番それを歓迎しているのは実は障害者なんですよね。切実に自分の身体機能を回復したい、あるいは記憶をよみがえらせたいということだと思うんですね。だからそういう人達がいるってことはやっぱり心の片隅に残しておかなくちゃいけないかなぁと思うんです。
菅原 ロマンチックに「この生身の身体」とか「この私の血」とか、そんなことをそれほど大事に思っているわけではないんですけど、それに身体障害者の方々がそういうのをどんどん利用するというのはまことにけっこうなことだと思うんですが、ただ最終的にそのシナリオというのは人間の不死性ということに行き着くと思うんですよね。そこでは私はもっとペシミスティックでね。だからいろんな技術を動員すれば、近い将来ある種の不死性が獲得されるであろうと。特に、臓器移植ですね。あれで、臓器移植とクローンを組み合わせれば自分のクローン人間達をどこかにたくさん飼っておいて、で、自分の臓器がだめになっていったら一つ一つその飼っているクローン達からとっていけば、理論的には何百年も生きることができますね。その不死とか不滅とかいうことは人間の一番の欲望だと思うんだけれども、その壁を踏み越えることに私はやはり直感的に非倫理的なものを感じます。
 昔どこかで読んで深く印象づけられた言葉で、「もし私達に死ということがなかったら私達は徹底的に堕落するしかないだろう」と。それを私は直感的に正しいと思うんですね。不死であるがために徹底的に堕落している存在の象徴がドラキュラだと思うんですね。サイボーグ化というのは必要だったらどんどんやればいいんだけど、それが不死性へと結びつくということにはどうしても納得のできないものを感じる。



インターネットを使わないという選択

塚本 ブッシュマンのところへ先生行かれていろいろ字で記録されていますよね。それを見て彼らが字を使おうとするということはないんですか?
菅原 どんどん文化変容が進んでいますから、私の友人である世代は全くのいわゆる文盲ですが、それより下の世代は小学校に行っている。ボツワナという国は妙な国でブッシュマンを強制移住させたりひどいこともするんだけど、一方ですごく福祉国家なんです。それはダイアモンド鉱山があるからけっこう国はお金持ちなんですね。奨学金制度がめちゃくちゃ完備しているから、私達の定住地で小学校で優秀な成績を収めたものは街の中学に行き、さらにどんどんステップアップして大学にまで行って、私の昔からの知り合いは今隣国の大学で音楽活動をしながら音楽芸術の勉強をしたりしていて。その一方でちゃっかり「私はブッシュマンだ」っていってふんどし付けて、それらしいブッシュマンらしい歌を歌って金を荒稼ぎしたり。そういうちゃっかりしたやつはどんどんいて。だから今の若い世代は英語とか、もう一つの国民語のツワナ語とかを読み書きができる人がとても多いです。
塚本 文字を見た彼らは文字を選ばないという選択はできるか? ということとか、人類というのは、たとえば火を発見した時に火を使わないという選択はできるか? これから新しい科学技術、インターネットとかいうものが目の前にある時にそれを使わないという選択を本当にできるものなのかということに関してご意見をお聞かせください。
菅原 塚本さんのその疑問に対して答えるためにはやはりそれを観念論的に考えてはいけないといわざるを得ないと思うんですね。観念論的に考えるというのは、ここに私がいて、ここに火があって、それを使うか使わないか、ではなくて、人類史というのは集団同士の殺し合いでやってきた、スパルタとアテネの例をとるまでもなくね。人類史の大きな特徴というのは、ほかの動物が全然やらなかった集団皆殺しですね。そうすると技術というのは、ここで集団同士の競合の問題に置き換わるわけですね。一方の集団がAという技術を持っていて、他方の集団が持っていなかったら、他方の集団は滅ぼされる。何のことはない軍拡競争の理論です。だから私が最終的には国家廃絶しかないといっているのは、技術とそういう互いに殺し合う集団の分節化というのが結合した状況で人類史が続く限り、それは果てしない軍拡競争というのをストップできなくてどこかで滅びるだろうというシナリオです。
 これは男と女に関して同じことがいえますよね。私達大学で教育している人間は骨身にしみて知ってますけど、男と女の間に知能差なんてあるわけないですよね。むしろ最近は女子学生の方が元気で、成績優秀者のかなりの部分は女子学生ですよね。だけどなんで人類史の中でほとんどの社会が男が政治権力を握る社会であったかというと、これも集団の競争で説明できるんですね。A集団が兵士が男で、B集団が兵士が女で白兵戦をしたら、絶対A集団の方が勝っちゃう。だから軍事というのはとにかく男がしなくちゃいけない。つまりホモサピエンスの身体形質としてそうなっているんだから、男性支配という、人類史に非常に古くからある構造を生み出したのも集団化の競争だというのが私はかなり説得力のある議論だと思う。だから技術の話もそれと同じで、これを集団間の競争という、この私達にとっての宿命と技術との結合というのを私は決して人類にとって祝福すべきことだとは思えない。
 事実として彼らにとってはっきりとした不幸は、小学校で文字を覚えて英語を多少喋れるようになっても、それを活かせる職業というのはほとんどないですよね。そうするとなまじ外の世界のことを知ってしまって欲望だけがかき立てられるということはとても不幸ですね。そうするとあと待っているのはアル中人生一直線という感じ。だからなまじ中途半端に高等教育を受けたブッシュマンの若い世代にアルコール依存者はとても多いですね。そういうことは私ははっきりと不幸なことだと思わざるを得ない。
佐藤 だいたい今の民族社会は民族学者の期待を裏切っているんですよね。ほとんどの民族社会がそのような理想に向かってはいない。
菅原 だからやっぱり私はグローバリゼーションというのはかなり恐ろしいものだと思うんですね。もし私が野心的な政治家で、私が政権を取ったらもちろん根本的に日本のあり方を変えようとは思いますけれど、そんなこといくら妄想でいってもしょうがない。最近、私が好きな好きな言葉を使えば、この世界と粘り強く交渉していくしかないんじゃないかなと思います。

(編集 小山茂樹@ブックポケット)





この章の最初に戻る |塚本昌彦|菅原和孝|討論| 次の章へ


yumoka23 yumoka23 yumoka23