思い出はどこへ行くのか? ― 2005.02.27 ―

[20050227みんぱく共同研究会第5回]
[国立民族学博物館2階第6セミナー室 2005年2月27日 13:00-]
[参加]
川崎一平 神田敏晶 内田直子 大谷裕子 加藤ゆうこ 國頭吾郎 久保正敏 久保隅綾 黒石いずみ 佐藤浩司 佐藤優香 清水郁郎 須永剛司 関根康正 長浜宏和 野島久雄 南保輔 安村通晃 山本貴代 山本泰則 清水 平川智章

全記録

じゃぁそろそろ

[野島] じゃぁそろそろ始めましょう。神田さんがちょっと遅れてくるみたいなので。ちょっとマイクをここに置かせてください。来年度の話は?

[佐藤浩司] 来年度はまだいえないけど。[0'23][雑談][0'49]どういう順でやる?

[川崎] 途中でちょっとやって、ビデオをやって。ソビッコ[?][0'56]の様子。[聞き取れず][0'58]とってるの。

[佐藤浩司] 食べてるところ?

[川崎] 食べてるところ。

[佐藤浩司] サゴヤシを?サカゴムシを?どっち?

[川崎] てんぷん。てんぷん採集[?][1'04]。

[佐藤浩司] サカゴムシ食べてるところないの?

[川崎] あとイニシエーションがちょっと。

[野島] じゃぁ始めましょう。紹介は、川崎先生の紹介をお願いします。

[佐藤浩司] やる?

[関根] 今年度最後?

[佐藤浩司] えっと。じゃぁもうやるね、出だしだけ。[1'23]第5回の共同研究会を始めさせていただきます。5回でしたっけ。

[野島] ちょうど5回目。

[佐藤浩司] 今日は川崎一平さん。ニューギニアを専門にされていて、最近海洋大、海洋大学じゃないや、なんだっけな。

[川崎] 東海大学。

[佐藤浩司] 東海大学の海洋なんとかかんとかで。実はもう一人の今日のレクチャーをしてくださる神田さん。まだ今日見えてないんですけど、神田さんがネットワークの将来像について話されるというので、なんかネットワーク関係で話題がクロスできるような人いないかなということで探していたんです。それで川崎さんがちょうど、まぁ海洋だし、現代社会が硬直する以前のネットワーク環境が海洋文化にはあるのでなんかいいテーマ、いい話題を提供してくれるんじゃないかと思ってお願いしています。それで、実は来年度も同じように申請しますが、たぶん年4回ぐらいになるんじゃないかと思ってますけど。それからお手元に特別展の招待状のはがきを入れさせてもらってますが、できましたら来年度の研究会を一度展示が見れるような機会に設定して見ていただけるようにしたいと思います。まだオープンしてませんので。それぐらいかなぁ、事務的な話は。

[野島] 16日から始まるんですね?

[佐藤浩司] 17です。16がプレオープン、プレスなので。そんな感じでよろしいでしょうか。それから加藤さんが1時間ほど遅れるそうです。例によって自己紹介からですかね。簡単な。

[野島] そうですねぇ、しばらくぶりにちょっと。

[佐藤浩司] 川崎さんに言わないといけないし。

[野島] そうですね。みんな喋りたい人も多いだろうから、2分ぐらいずつ喋りましょう。

[佐藤浩司] じゃぁどうぞ。

[野島] 僕が喋りたいってことなのかなぁって気がしますが。先週からずっーっと地方巡業で、ちょうど先週の木曜日ぐらいに大阪でやって、それから和歌山にいって、また大阪までいって、しばらく車でずっと移動しているんで、なんか楽しい関西の旅をしてきました。昨日は大阪城の近くに泊まりましたので、なかなか楽しかったです。で、いろいろとあれですけど、来年度から大学の方に移ることになりまして、そこの南先生と同じ大学に行くことになりましたので、いろいろと変わることもあると思いますけれども今後ともよろしくお願いします。[4'15]

[南] 成城大学の南です。野島さんには新しい社会イノベーション学部っていう部類があるんですけれども、その辺。ちょっと前回入試業務で残念ながら欠席したのでだいぶ何を言っていいのかも。モードがないので。ただ私が何をやっていたかを言いますと、エスノメソドロジー[?][4'39]っていうことに最近興味があってやっていまして、ものが実際に、あるいはその場面っていうものにこだわった研究をしていきたいということで考えております。よろしくお願いします。

[國頭] NTTドコモネットワーク研究所の國頭と申します。ものを通じて身の回りの、人がどんなことをやっているんだということを推定してそこからサービスを提供するようなものというのを考えていきたいと思っています。先ほど、前回の、今月初めのミーティングのときには全然咲いてなかった梅が今満開ですので、お時間ある方是非梅園に行かれて。きれいかと思います。[聞き取れず][5'25]

[久保隅] コニカミノルタテクノロジーセンター・イメージング文化研究所の久保隅と申します。私はイメージングの文化の研究ということで、写真ですとかそういったものについて研究をしているんですけれども、最近は実際にご家庭に訪問させていただいて、情報メディア関連の機器をどういうふうに設置されているのかとか、どういうふうにお使いかというのをいろいろなご家庭にお伺いして話を聞いたり見せて頂いたりというようなことをしております。そういった中でやっぱり日本人はテレビを好きだなぁというのを非常に感じながらやっております。またご紹介する機会があれば是非させていただきたいというふうに思います。以上です。よろしくお願いします。[6'15]

[長浜] 大和ハウス総合技術研究所生活ソフト研究室の長浜と申します。前回は先ほどインフルエンザで急に休んでしまって申し訳ありませんでした。私のところではハウスメーカーという立場の中でいろんなライフスタイルの変化や、[聞き取れず][6'39]エンドユーザーさんの生活意識の変化を受けてこれからの住まいはどう変わっていくのか。どういう風な住まいがこれからにはふさわしいかということを考えています。こういった研究会の刺激を全てこれからの住まいがどうなるのかというのもまた考え[聞き取れず][7'03]。またよろしくお願いします。

[山本貴] 博報堂生活総合研究所の山本でございます。今年は、前回お休みさせていただいて、昨年は大変いろいろカメラが入ったりとかして。なのにその部分だけカットされていて大変失礼いたしました。今日はお詫びのおやつとともに参りました。まだありますので召し上がってください。

[不明] それは絵にならなかったってことですか?

[山本貴] いえいえ。もっとロケ、1週間ぐらいずっとやったんですけど、なんか違うところだけ使われてしまって。非常に残念に思っております。それで私もいろいろと地方巡業を終えてやっとここに来たんですけれども。もう来週の水曜日からは今度は中国の上海と北京と成都と杭州にOLのハンドバッグの中身調査というのをやりにいって参ります。家の中から持ち出す最小限の生活まわりのものということで、中国のOLが何を一体、どんなブランドを持っているかというのをやりに調べに行きますが、中国の女性はみんな働いているので6時ぐらいにならないと会社から出てこないということで、午後から夜の作業になるみたいで2日ぐらい渡り歩いて1週間。ついでにサラリーマンも少し見てくるということで、寒いところにいって参ります。またご報告をさせていただきます。よろしくお願いします。[8'38]

[黒石] 青山の女子短期大学の教養学科の黒石です。建築がバックグラウンドなんですけれども、今和次郎の研究をしたりいろんなことをやっています。それで私は地方巡業は、好きか嫌いは別として、これから帰ったらインドネシアに津波の被害を受けた人たちのための、子供のための日帰りキャンプっていうのを作っている友人がいて、そこに、まぁ娘が先に行ってるんですけど、私も手伝いに行ってきます。

[大谷] 編集者の大谷といいます。この研究会のニュースを1回作っただけで頓挫しています。ごめんなさい。4月の中旬ぐらいから順次できる予定です。もうちょっとしたら楽になります。で、さっき佐藤さんが来年度は年4回ぐらいっておっしゃっていたのをちらっと聞いて、すごくほっとしました。遅れないように出していければと思っていて、仕事の方はだいたい家の中のことで、暮らしにまつわることや家族の人間関係みたいなところを中心に本を作ったり雑誌の記事を書いたり、それにまつわるいろんなところでの編集作業みたいなこともやっています。よろしくお願いします。[10'12]

[野島] 前回のテープ起こしはもうできあがっていますので、今度またウェブにあげておきます。

[大谷] はい。

[佐藤浩司] [笑]プレッシャー?プレッシャー、プレッシャー?

[関根] 日本女子大学の関根ですが、私は文化人類学が専門で、地域的にはインドですが、最近は少し移民の問題に関心が。移民そのものの問題というよりは移民の文化形成というか、文化に興味があるんですけどね。それはなぜかというと、理由は個人的な理由でインドばっかりやってると一生インドしか行けないってことがわかって、移民をやればどこにでも行ける。世界旅行を、科研費でもあるんだけど世界旅行に使わせてもらいたい。余生、もうちょっとですけど。この理由は本当の理由なんですけど、ちょっと今ブリコラージュの云々というのが、展示が今度されるわけですけど、この前月刊みんぱくがこれの特集で、野島先生も書かれてましたけど、非常におもしろく読みまして。あれを読んだらなんかこの研究会のある局面の意味っていうのが、全部じゃないんですけど、ちょっと少し分かった気がしましたけど。分かったというのは要するに、自分も関われる点があるかなということがちょっとわかったってことなんですけど。もう一つ感じたのはブリコラージュというのはきわめて便利な言葉ですけど、要するに何いっているのかよく分からないというところもあって。それで今たぶん世の中の[聞き取れず][12'02]はブリコラージュを調べるっていう。さっきも中身調べるとか、家の中見るとか、そういう私だったら絶対やられたくないようなことをどんどんやってますけれども。そういうことを受け入れてくれる人もいるでしょうが、断る人もいると思うので、そういうブリコ、まぁそれはブリコラージュじゃないけれども。そういう、みんなそれぞれ四苦八苦してやってる状態を克明に調べられたら、これはたまったもんじゃないなと。それでそれをまぁもちろんはっきりはしてもらうけど、主本の論理がそれを使っていくってことは一体どういうことかなっていう、ちょっと我々も訪問に来たら断ろうかとかね。「見せてくれ」っていってすぐ「見せる」っていうんだろうかとか。という余分なことをちょっと考えたりしちゃいましたけど。それからもう一つ余分なことですけど、一昨日「ターミネーター3」をやっていて見ていたら、この前の前回の、お名前ちょっとあれですけど。お話、

[佐藤浩司] 上田さん。

[関根] え?

[安村] 上田さんだと思う。

[関根] ええ、上田さんのお話を思い出したというか、全然ちょっと関係ないんですけど。ひどい映画でしたね、ターミネーター3は。駄作も駄作ですけど、まぁでもなんかどこか関係してるなぁと思っておもしろく見てましたけど。そう。よろしくお願いします。[13'34]

[清水] みんぱくの外来研究員の清水です。人類学と建築学の中間領域みたいなところでずっとやっておりますけど、今回が2回目で、いつも何かとバッティングしてしまう。で、何かっていうのは地球研というところでラオス研究に関わっていて、いつもその行事とバッティングしてしまうんですけど。3月も3週間ぐらいいってきます。それで、何してるかっていうと、住まいの研究とあとライフヒストリーを聞きたいなと思って。ライフヒストリーってやっぱり思い出とか、思い入れに非常に関わっているんですね。この研究会の[聞き取れず][14'23]でいうと、思い出と記憶って一体何が違うのか。イマイチ僕よく分かってないんですね。思い出ってたぶん非常に身体的で、匂いとか可視化できないものをいっぱい寄せ集めてできているものですけど、そういうもの[?][14'40]だったらとても、僕自身も退屈だし、持っていたいと思いますが、ただの記憶だったらなくなってもいいなと思うものいっぱいあります。そこら辺の見極めをこの研究会は一体どういうふうに考えているのかって非常にちょっと位置づけがまだ分からないところがあるので、そういうところをちょっとこれから考えていきたいと思います。[15'01]

[内田] 夙川学院短大の内田と申します。所属している専攻がファッションというものなのでどうしても被服の方に関わらざるをえないんですが、興味は生活全般にあります。ただそのここの中のものと記憶とか思い出とかなんかもいって。服とだけ見たときに思い出って何なんだろう。今廃棄処分するのが大変だとか、そっちの問題があるのになと思いながら、ただ押入の奥の、それはどこの[?][15'30]七五三のときの着物が100年ぐらいしまってあるんですね。あるので。でもあれはもう捨てられない状態だなと。ちょっとまた今の現状と歴史、時間を積み重ねてしまうと価値が出てくる。[聞き取れず][15'44]それでいつも野島さんが私と目を合わせると日記の話をいわれて、すごくそのあと、この前のあと気になったので、押入あけました。そうしましてもう10年以上封印していた日記を取り出して読み返しました。はっきり人様にお見せできるような代物ではないことが分かって、ふと、日記を書くことは思い出をここでもう封印してしまうことになるのではないかなという気がしたことがあるんですね。であと、鉛筆で書いている部分と万年筆の部分があって、万年筆が劣化するのではないかと気になって。確かに劣化してます。だからうーん、やばいなと思いつつ、また封印してしまいました。以上でございます。[16'31]

[安村] 慶応大学の安村です。ヒューマンインタフェース。人間と機械とのインタフェースをやってるんですけれども、最初に野島さんに紹介されたときは工学系とか分類されてましたけれども、なんか自分が、前回のミーティングも反工学系にだんだんかなりシフトしているという自分自身気が付いて驚いているんですけど。前回もちょっと申し上げましたけど、2月の7、8日とうちの学生が「家展~記憶の形」というのをやらせていただきまして、都内で。200人を超す参加者をいただいて結構反響があって、その後も新聞に載せて頂いたり雑誌で取り上げて頂いたりして、自分ながらいうのも変ですけど、結構面白かったかなぁと思うんです。やってることは、前回なら上田さんはどちらかというとともかくセンサ付けて記録すればいいって。我々の方はそうじゃなくて、何のために記憶するかとか、記録するかとか、どう思い出したいのか、あるいはどう忘れたいのかっていうところに主に関心があります。すごく人間的なというか、コミュニケーションとか、人と人とのつながりにとって何がITが伝えるかというような発想が逆でやっているつもりでおります。あとは別件で科研費が[聞き取れず][17'51]で通りまして、去年から我々の班っていうか、私のところでは視覚障害者の家電利用みたいな話をやってますので、まぁそこはたぶんあまり光が当たってなかった部分なので、実はほとんど使えないで、本当に標準的なことしか使っておられなかったんですね、今までは。それをどういうふうにしたら使えるかっていうのをこれから、あと3年間ぐらいでやってみたいと思っています。以上です。[18'16]

[佐藤優香] 佐藤優香です。この研究会が始まってから、自己紹介でしか喋っていなくて。いつも皆さんの発表と議論を聞きながら頭がぐるぐると、うーんと、いつも考えてばかりいるのに時間が来てしまうので来年度はちょっと質問したりコメントしたりできるように成長したいなと思っております。

[野島] 今日だ、今日。

[佐藤優香] 今日から。[笑]

[佐藤浩司] 今日できること。

[佐藤優香] じゃぁ今日はその気持ちを持って参加したいと思います。私は教育学が専門でして、学びのための環境のデザインとか、コミュニケーションのための状況のデザインみたいなところにとても関心があります。地方巡業の続きではないですが、私も先週ちょっとフォーラムで発表したんですが、そのときに話題が北海道の旭山動物園の方がお見えになっていて、その報告を聞いてもう吸い込まれるように話にうわーっと惹きつけられて。動物がどうすれば生き生きするかっていう、動物の環境のデザインというのを変えた。そうしたら動物も幸せになったし、見に来る人もそれで楽しめるし。ちょっとした住環境を変えることで双方にとってとても楽しい環境になったということをものすごく説得力のある話を聞いて、もういてもたってもいられなくなったので来週行くことにしました。それが私の今の一番の楽しみです。それと今回私も異動することになりまして、初めて実家を出て関東に引っ越しすることになりました。で、私今の部屋に小学校のときからずっと暮らしていて、その引っ越ししないといけないということが決まって2日目ぐらいに自分の部屋のこんなのとかをみてると急に涙が出てきて、これを一体私はどうするんだろうと思ったら、なんかすごく気持ちがざわざわしたというか。で、この研究会のことを思い出して、さてこれをどこまで残しておいて、何を記録して何を持って行こうと思ったら、今頭がぐるぐるしていて、そういう毎日です。今日は何とかコメントしたいと思います。

[佐藤浩司] 職場についてはいいんですか?

[佐藤優香] あ。はい。

[佐藤浩司] いっといた方がいい。

[佐藤優香] 千葉県にあります国立歴史民族学博物館っていうところに行くことになりました。まぁみんぱくと同じ。

[野島] [聞き取れず][20'45]

[佐藤優香] 佐倉です。成田空港のちょっと手前なので非常に遠いんですけれども。千葉県に友達がほとんどいませんので皆さん遊びに来てください。で、ここにずっと大学院のときからここでアルバイトをしていて10年ぐらい所属してるんですけども、面接を受ける前に、同じ施設なので同じような感覚のつもりでいったらあまりにも感じが違うので結構ショックを受けて。全然、歴史を扱っているところが持つ重さみたいなものにすごく圧倒されました。でも結局。

[不明] いばって歩いてるでしょ。[21'31]

[佐藤優香] え、あ。

[不明] いやいやいや。

[佐藤優香] [笑]いや、短い[聞き取れず][21'37]だったので圧倒されたというか。なんかすごく歴史って重いなと思ったんですよね。あとなんだろう。ここ自体も小学校のときから自分自身の中に親しみがあってずっと来ていたので、改めてみんぱくについては意識がなかったんですけど、大人になっていろいろ博物館のこととか知ってから見に行ったからよけいにいろいろ思ったところがあって。どんなお仕事ができるかなと楽しみ半分、不安半分そんな感じです。

[野島] とてつもない田舎ですよね。

[佐藤優香] 真ん中に住もうと思っています。[笑]

[不明] [聞き取れず][22'24]

[佐藤優香] なんか行くときに何をショック受けたかって、まず電車1駅分ずっと田んぼしかない。ずーっと田んぼの風景で。駅に着いてもなんかそういう雰囲気で。はい。

[不明] 佐倉気をつけた方がいいですよ。奇妙な犯罪が結構起きるところだから。

[佐藤優香] えぇー。

[不明] なにやらほんと。最近典型的な郊外的な変な事件が。

[佐藤優香] 何に気をつけていったらいいんですか。

[佐藤浩司] あんまり暗いとこ歩かないとか。

[佐藤優香] 明るいうちにおうちに帰ります。はい。いい情報ありがとうございます。

[野島] じゃぁ佐藤さん一言。

[佐藤浩司] 川崎さん。その前に皆さん、これお手元に届いてますよね。メンバーには一応発送されているはずなんですけど。行ってますよね。今私はこれでほとんど忙殺されていて。四面楚歌の中でやっているので、みんぱくの資料をこんなことに使うのはけしからんというのが、まぁだいたいの。こういうことをしちゃいけないんだよってことを教えるのがこの博物館のずっと役割だったんですけど、それをちょっと解き放ってしまって、その解き放つためにいろんな、まぁブリコラージュとかいろいろ能書きを述べているんですけど、それだけじゃやっぱり納得してくれない。歴史の重みっていうか、やっぱそれをやったとたんにさまざまな抵抗があるんですよね。それがちょっと大変で。これ内輪話で、ここだけでなんですけど。

[野島] マイクが今そこにしか1個ないので、特に長浜さんあたりはちょっと声を張り上げて喋ってくださいね。

[佐藤浩司] それで川崎さんとは、実は1999年98年に私が人類学者50人の方と共に住まいについての、世界の住まいについての本を編集したんです。で、この中にも関根さんとか、まぁそこに2人いる清水さん、平川さんも書いていてくれてるんですけど、本を編集したときに川崎さんにもお願いしてるんです。で、実はその本の中の半分以上の人とは面識がなくて、結局本が編集終わるまで面識なかった人がほとんどなんですよ。で、川崎さんもたぶん面識ないまんま終わっちゃったんだよね。

[川崎] 吉田さんのシンポジウムで一緒になった。

[佐藤浩司] 1回会ったんだっけか。で、なんていうのかな。インターネットが普及し始めてメールで全て済むようになって、その本の編集は全部メールでやりとりしてたんです。ものすごい膨大な数のメールだったんですけど、それで4冊本ができました。そのときにとてもいい原稿を書いてくださった人の一人でしたので、そのときから何か一度仕事したいなと思ってたんですけど、いい機会だったので声をかけさせてもらいました。[25'05]

[野島] 平川さん、一言。

[平川] はい。[聞き取れない][25'11]学会の平川です。淡路島にある看護学校で人類学を補助勤務をしてます[?][25'18]。専門は文化人類学で、強いてスーダン。スーダンにある王国で暮らしている人達の家族とか住まいとか。最近はあまりものを書くことが少なくなってますけれども、ノスタルジーや思い出みたいなものに関してなんかすごく。それでこの研究会に参加させてもうらことになりました。まぁ住まいとか家とかそういったものと関係して、日本に暮らしている自分の環境であるとか、あとは個人的な関心から、日本で、ちょっと病気をしたことがありまして、その病気にかかっている人達、まぁ[聞き取れない][25'59]に病気を治療に家族と一緒に取り組んでいるかっていうようなことを最近調べようかなぁと思って、一人[聞き取れない][26'09]始めたんですが、思っているうちに内線で入れなかったスーダンに和平調停が昨年暮れ、今年の初めに結ばれて。あぁー、なんかのんきに日本のこと考えている間に、ここんとこスーダンが平和な状態になってその後彼らがどうなったか早く見に行かなきゃいけないということで、ちょっと気がせいているところもあったりして。で、この研究会では、そうした個人的な関心と、それと家族であるとかあと社会であるとかというものがどのような環境に進んでいるのかということも、メディアを中心に語っている、そういう研究会がその一部なんですが、特別私が関係している調査っていうのは直接そうした問題を抱えてはいないんですが、何か考えるヒントになればいいなと思って参加しました。お願いします。[27'05]

[野島] どうもありがとうございました。それでは川崎先生の方からお願いします。[27'11]

[川崎] はい。

[野島] 時間は1時間ちょっとぐらいで、ディスカッション入れて全部で2時間です。




おねだりと償い

[川崎] こんにちは。東海大学の川崎です。
最初に少し自己紹介します。専門は文化人類学です。フィールドはパプアニューギニアです。1988年からパプアニューギニアにありますセピックっていう大きな川がある地域なんですけれども、そのセピック川に通っています。
で、1988年、このみんぱくにいらっしゃいました吉田集而さん、昨年お亡くなりになられましたけれども、吉田集而さんのグループで初めてフィールドワークに出ました。
佐藤さんとのお付き合いといいますか、佐藤さんとの関係は吉田集而さんの主催するシンポジウムだったと思うんですが。そこに呼んでいただいて、そのときにも佐藤さんがご出席されていて、そのときが私佐藤さんと初めてだったと思います。で、先ほど佐藤さんから申されましたように建築人類学の本に寄稿させていただきまして、そのときには原稿締切かなり何ヶ月か遅れて大変ご迷惑をおかけしました。

で、最近やっていることは、なかなか専門は文化人類学といえないところがあって、大学作りをやってます。私立大学、現在東海大学なんですけれども、大学の業務の中で新しい大学を作ったり、大学院作ったりっていうのは雑多あるんですが、そういう中に巻き込まれてしまいましていろんなことやってます。建物作ったりゼネコンと交渉したりとか、経営のこともなんだかんだやったりもしています。[29'12]そういう中でアルカイブっていう学校の大学がこの時代何してきたのかということを一時記録してやろうと思って、理事との話やら学長の折衝やら文部省のことやら、わりと自分なりにメモをとってきています。

という中で文化人類学の方はニューギニア。パプアニューギニアもずっと通っています。ニューギニアでの関心は開発です。開発する側の論理、される側のさまざまな現象が出てきています。そういう中で開発する側の論理であるとか、意図とはおそらくまったく無関係なところで、とはいえ、その開発する側が持ち込んでくるさまざまな理屈であるとか、言葉であるとか、道具とか、そういうものを巧みに住民は利用しつつ、自分なり、彼らなりのその新しい開発っていうのを起こしてきている。そういう側面に注目しています。
それから地域は最近少しまた浮気をしていまして、本当にずっとニューギニアでええのか。特に私の先生でもあるんですが、インドやってはる先生なんかは「おまえパプアニューギニアなんか一生かけてやる仕事か?」なんかいわれてまして、もうちょっと文明の方に触手のばしたいということで最近はインドネシアにも行っています。5年ぐらい科研で、これも訳のわからない科研なんですけども、スポーツ人類学という分野がありまして、そこでお誘いいただいて、バリに行ったり、インドネシアに行って女の人と一緒に踊ってます。踊るのも少し飽きて、去年くらいから船作り。船作りを調べ始めました。船造りの職人達が[聞き取れない][31'10]インドネシア各地に出向いていって、そこで新たな船を建造したり、そこで新たなお祭りをしたりとか。先ほど関根先生が移民ということをおっしゃいましたけど、私もの作る、船を造るということに伴って人がどんどん動いていく、その人を追っかけていこうという風にして今やっています。
で、東海大学で海洋学部ということで理科系の学部なんですけれども、新しく文科系の学科ができまして、そういうことも絡んで、今は船造りについて少し関心を持っているところです。というところで、ニューギニアやったりインドネシアやったりして、まともな仕事をきちんと業績が全くないままで非常にお恥ずかしいんですけれども、佐藤さんの方からお声をかけていただいて、そのとき2つご要望がございました。一つはフィールドの現場からの肉声を聞かせてほしいということ。それから人類学の議論せんといてほしい、というか、そんな内輪な話なんかええんだと。あんたにおもろい話を期待してるなんてことを言われまして、どうしたものかとちょっとまだ準備ができていない段階です。

肉声ということで、肉声といったらこれしかないかなと思ってます。これはですね、思い出の、私の、あるいはニューギニアの人をつないでいる思い出の品でありまして。槍なんです。いくつか私槍持ってるんですが、本当に人殺す槍もあります。ここに竹がついているんですが、ちょっとそれはこっち持ってくるのまずいので、これはわざわざ人殺さんでもええようにというか、こういう形の、彼らが新しくデザインしたものです。この中にはいろんな物語が詰まってます。あとでお話申し上げますが、彼らストーリー、ニューギニアの言葉はピジン語、ピジンイングリッシュといいまして、ピジン語なんですけれども。語彙が80%英語できてます。で、ストーリーという風なことをいいますけれども。いろいろな話がこの中に詰まってます。踊りもあります。それから雄叫びもありますので最初にやります。

[一同] [笑]

[川崎] 恥ずかしいなぁ。なんでこんなことやらなあかんのと思いますけれども。

[安村] 真ん中でどうぞ。

[川崎] 真ん中でですか。[中央に移動しているらしい]全部森の方がいいんですが。恥ずかしい。出るかな、声が。[34'06][雄叫び][34'31]ちょっと恥ずかしくなって来ちゃった。

[一同] [拍手]

[川崎] 一人でやるとおかしくなっちゃうんですが。ちょっとさすがに恥ずかしいですね。みんなでやります。非常に不思議なんですけれども、なんていうんですか。共鳴といいますか、こういうこと日本でやるとたぶん彼らも今同じこと感じてるんじゃないかと思います。で、これは本当に私が一緒にニューギニアに行く仲間がみんな不思議がるんですが、なんの連絡もせずに、もちろん連絡とれないわけなんですが、ニューギニアの飛行機、国内便が到着するローカルな飛行場があるんです。そこおりますと、私の友達達が出迎えに来てくれてます。「おまえが来るのわかるんだ」ということなんですね。いろいろなメッセージを伝える、虫とか蝶が飛んできました、それで川崎がやってくるんだという風に感じるそうです。でも最近はそれこそインターネットやら電話やら、また航空会社にセピックから、セピックの人間が航空会社、エアニューギニーといいます。就職していることもありまして、ブッキングデータ全部調べて、いつくるのかということも、どうもわかっていてそういうことをやっているんじゃないかということもありますが、最初はでもまったくそういう状況じゃないまま、かなり奥地なんですが行きましてもみんな私のこと待っていてくれると。「ちゃんとわかってたんだよ」ということです。で、村に近づくときに私こういうの持ちましてシングアウトします。距離数はわからないんですが、10キロぐらい隔てたところで向こうから返事が返ってくるということであります。

すみません、ちょっと余興やりましたけれども。で、もう一つ持ってきています。これはワニの歯でできたものなんですけれども。彫刻が施されています。これにもストーリーがあります。ずっと私がお世話になっていた方がいらっしゃいまして、その方が亡くなられました。その人が亡くなったときに、実は彼と私の関係も友人だったものですから、私はいろんなプレゼントといいますか、彼のところ置いていきました。彼の墓の中に私の持ち物がいっぱい入っています。彼は家族を残したわけですが、残された娘が結婚しました。その旦那が私のために、そのワニの歯に彫刻を施して、彼の名前と共にいただいたものです。2つあります。今日は1つ持ってきました。そういうので、私自身にとっても、また私が18年になりますがお付き合いしていく中で、私と、第3人称で語られる彼ら。彼ではなくて、具体的に名前を、あるいは顔形のある人間の、そういうお付き合いの中でさまざまなものがやりとりされたり、作ったりしております。今日はそういうお話を少ししていきたいなと思っています。[38'16]

で、どういう形でフィールドワークといいますか、仕事をやっているかというので、自分はカメラ持っているので、自分の写真はないんですが、これは去年、通常単独でフィールド入るんですが、昨年は、一昨年ですか。は、中京大学の斎藤尚文さん。斎藤さんは私とフィールド近いものですから一緒に行きました。こういう形で村人の中を囲まれて聞き取りしてますよという形です。そして、ニューギニアの家は壁がございませんので、こういうような中で同居、彼らと共に生活をしているような状況です。これは私ですけれども、バヒネモと呼ばれる言語集団です。人口およそ400名の、話者人口400名の小さな言語ですけれども。そこの村で調査をしている。これ斎藤さんに撮ってもらったとこです。
あと昨年から女性の、広島大学の院生ですけれども、グループで連れて行きまして、女性と向こうの村の奥さん方との会話、こういう形で進めてますよというようなスナップです。
パプアニューギニアは1975年にオーストラリアから独立しましたけれども、場所はオーストラリアの北部にあります。東経142度で、ニューギニア島の東半分が独立王国パプアニューギニアになってます。西半分はインドネシア領イリアンジャヤです。首都はポートモレスビー。私がもっぱら調査をしてるのは、そこから上は東セピック州という州ですが、それの州都になっています。ここにずっと蛇行している川があります。景観的には南米のアマゾン川のような川ですけれども、蛇行している川です。
そのセピック川にアンブンティという人口8000人ほどの小さな街があります。1922年に、その当時オーストラリア行政府のもとで作られたパトロールのためのステーションです。現在はここに周辺の民族集団の人達、さまざまな民族がここで暮らしている。
私が調査入ったのは、それからずっと更にこの川をさかのぼっていきますけれども、ガホムとバヒネモ語を話す人達の村です。今日のお話はバヒネモの人達、あるいはこのアンブンティ周辺、このセピックをずっと私滞在する期間が多うございますので、そこのイアティムルという民族がいます。そのイアティムルあるいはバヒネモの話を織り交ぜながらご紹介していきたいと思います。
これはそのセピック地方の言語地図なんですが、パッとご覧いただいてわかるように非常に多数の言語があるわけです。パプアニューギニア全体で700の言語があるといわれています。[41'36]国の人口はおよそ400万人。で、一番小さな言語は100名といわれてます。ビタラといわれているところですが。で、イアティムルといわれるセピックの、これは民族ですが非常に大きなエスニックグループです。といいましても人口は約10000人。私が調査しているバヒネモ、これは人口先ほど申しましたように400人です。で、4つの村落に居住しているということです。
で、セピックの生活ですけれども、基本的にこのセピック川の川沿いに暮らす人達は大きなカヌーを使いまして、それで村々を行き交いながら、サゴヤシから澱粉をとる。あるいはブッシュで野豚を狩ったりする人達です。一方私が調査をしているバヒネモの人達は川から若干山の方に、奥地に入っていきます。とはいえ海抜は80メートルで山岳地帯では決してありません。でも基本的にはサゴヤシをとりますけれども、このセピック本流粋の人からすれば山の人とという風に呼ばれています。ただ生産量はセピックの本流の人達とほとんど変わらないものです。

で、ビデオ用意したのでちょっとご覧ください。ちょっと言い訳ですが、ホームビデオができたばっかりでうまく撮れなかったんですよ。サゴヤシってこんな風にしてとりますよっていうのを説明します。あれ?これか。[間][43'34][ビデオ再生]で、今ここでビデオで映ってるのは、実はバヒネモではなくて、斎藤尚文っていう人がいるんですが、その人が調査しているヤビオという民族集団の村です。バヒネモのすぐ近くですけれども。採取法も同じ。これは今サゴヤシの新芽をとっているところです。サゴヤシはヤシ科の植物ですが、自生、自然に生えているものと、植え付けるもの2種類ございます。で、サゴは約20年間で大きく成木します。その一生の中で一度だけ花を咲かせ実をつけますけれども、そのあとに髄の中に澱粉を蓄えていくわけです。これは成木ではなくて、まだ幼木ですけれども、この中をこのように切り開いていきまして、その中の髄の部分を生で食べていきます。触感はホワイトアスパラのようなものです。彼らはジャングルの中で、ブッシュの中で野豚狩り等々を行っていきますが、手ぶらで、手ぶらっていうか食料持たずに中入っていきます。ブッシュの中の方が豊かであるという発想がその中にあります。
これちょっと早送りします。こういう形。[45'10][ビデオ早送り]
食べれるのはわずか数10センチなんですが、まぁ1本の木を切り倒して、約30分ほどかけて採取していきます。これはサゴの成木です。今鉄斧で木を切り倒してますけれども、この社会に鉄斧が入ってきたのは1960年代です。ですから40年の歴史しかないわけですが。この道具ですけれども、これ今切り倒しました。切り倒したあとですね、樹皮を剥いでいくことになります。
このセピックでは男の仕事、女の仕事、分離が明確に行われます。[46'03]切り倒すのは男の仕事。それから、この木の皮を剥ぐのはこれは共同でやっていきます。このヤビは少し女性が多く手伝いますけれども。すいません、ちょっと編集がうまいこといってないので早送りします。こういう形で剥いでいくわけです。
一見なんてことはないスティックなんですけれども。名前がありまして。それはこの「ボ」という一般名詞的な名称と共に固有名詞がつけられます。で、今これはサゴの髄の部分を砕いていきますが、これは鉄を使うのではなくって石を使います。もちろん鉄が入ってきていますから鉄を使うことができるんですけれども、一部鉄使います。ドラム缶を細工したものを使いますけれども、基本的にはサゴを砕くのは石が適していると彼らは表現します。適しているっていうのは、サゴを砕くのに上手に、またおいしく砕くことができる。鉄では味がまずい。砕いたサゴ、これは鉄で砕かれたものなのか、石で砕かれたものか。そういう意味では彼らは素材のバリエーションが、手持ちの材料がたくさんあるという風に言えると思います。
で、1本のサゴの木から約1ヶ月弱の、規模によりますけれども、人数いろいろありますが、たとえば4人5人で1ヶ月ほどの食、量にはなります。で、砕いていったものを、今度は濾過する。ちょうどジャガイモをすり下ろしてガーゼにくるんでギュッと絞りますと澱粉溜まります。それと同じやり方ですね。素材は全てブッシュの中でとれるものを用いるわけです。で、このさまざまな作業には歌が伴います。さっきも砕いているところでは歌を歌いながら作業するわけですが、歌の内容は、歌詞は非常にシンプルでして、「サゴヤシ固いよ~固いよ~」といっているだけです。
で、洗うのに、今これ洗う。彼らは、まぁ日本語では「洗う」と翻訳したらいいんでしょうか。その際には歌がないということでした。ある作業には歌伴いますけれども、伴わないものもあります。どういうときに歌を伴うのか、まだ不完全なんですけれども調べています。これはヤラセです。
作業工程の中で、次調理ということを知りたかったもので、火をつけてほしいということでお願いしました。着火方法はいろいろ、世界的にはもちろんいろいろあるわけですが、ここでは籐ですね。蔓をこすりつけまして摩擦熱で火をおこしていきます。大体30秒で起こすことができます。あと火をつけますと、今度調理していくわけですが、まず石を焼きまして、お湯の沸かし方。バナナの葉っぱで作られたバケツの中に焼けた石を放り込んでお湯を沸かすということです。この間、作業の間僕もずっと冗談を言っていたんですが、あの石ころを男に見立てる。男の生殖器のボールに見立てて、女性がその石をちょっと外してしまうと「しっかり男捕まえんかい」というようなことを冗談いいながら、沸く、つまり男と女の関係が出てくるというのを待つということです。[50'47]
で、澱粉にお湯を入れまして、このような形でサゴの団子ができあがります。これ2本のスティックを使って上手にくるくる巻いていくわけですが、やはりバナナの葉っぱにくるみます。ただし熱帯ですのでそんなに保存は利きません。この作業でおよそ40ぐらいの団子を作りましたけれども、2日ぐらいで消費していきます。サゴに関してはいろいろ所有の問題であるとか、また食べ方、サゴの木の持ち主以外にもいろいろ消費する範囲があるんですが、その問題はここでは省略します。調理の仕方のもう一つは蒸し料理です。先ほどとれた澱粉を、やっぱり葉っぱにくるんで、その上に焼けた石を放り込んで、おいて蒸していくという調理の仕方です。
ちなみに彼らはいわゆる人食い人種でありまして、人間を喰ったと自ら自分たちで証言する人達です。これ調理しているときも、「昔は人間の肉この中放り込んだんだよー」といってました。カニバリズムについては今回省略します。

[野島] 昔っていつぐらいですか?

[川崎] 定かなことはまったくわからないんですが、30年前には食べてたといっています。だから1970年ぐらいには。これはイニシエーションの様子です。部屋の一角を区切りまして、これ女性のイニシエーションです。初潮を迎えた女性達が部屋の一角に区切られて、約2ヶ月~3ヶ月過ごしていきます。会話をしてはいけません。いっさい外と隔離された状況です。中に入ってこの人達見ると病気になっちゃうよといわれたんですが、私は大丈夫だった。なぜ大丈夫なのかということも彼ら語ってくれたんですけど。まぁ大丈夫だということで撮らせてもらいました。
この植物はイネ科。沼の中にある、日本ではマルイとか呼んでいる植物だそうです。約2ヶ月~3ヶ月あのような形で隔離されたあと、いよいよ一人前の女性になってお披露目をするときがやってきます。一晩中踊るわけですけれども。夕刻から始まりまして明け方まで。朝日、太陽を直接浴びると、この若い子ども達は死んでしまう、病気になっちゃうという風に彼らはいっています。
で、儀礼には、これはショーアップされた儀礼じゃなくて、そういう意味では日常の、日常というか生活の中に根付いたものだと言えます。ただ、これビデオ撮ったのは1990年ですが、それ以降もう女性のイニシエーションは行われていないということでした。
これは、また歌なんですが、歌の内容も今はこれは鳥の歌を歌っています。鳥がブッシュに戻ってくると。夕刻です。夕方に鳥が森に戻っていく様子を歌った歌です。深夜には深夜の、また明け方には明け方の歌がありまして、その手順に乗っ取ってさまざまな手続きが行われていきます。ちょっとはしょります。
で、その間中、これはセピックの特徴になっているんですけれども、ハウスタンバランと呼ばれる家があります。精霊小屋ないしは儀礼小屋という風に訳されているものです。イニシエーションを、特に男性のイニシエーションを終えたものでなければ入ることのできない家屋という風に考えられています。まぁあれがそうですけれども。[55'48]従いまして、いわゆる女子どもはこの中に入ることはできない。今笛吹いてましたけれども、対になっている竹、横笛です。これも音ではありますけれども、ストーリーでありまして、いわゆる神話といっていいのかどうかわかりませんが口頭の伝承ですね。彼らは諳んじながら吹いていくわけです。
で、これは次の日になりまして、全身に化粧を施していきます。化粧を施していくのは母方叔父でありまして、母方の集団からこの儀礼を、成人式を終えて、父方の集団に入っていくということを表しているようです。彼らの、これはバヒネモですが、バヒネモの表現を借りますと、人間というのは最初はまったく手をつけていない状態である。
で、今このお祭りの間っていうのは、イグワというんですが、真っ白い状態になっていると。そこに母方のおじさんがいろいろ手を加えて、そして女にしていくのだという風に表現しています。そういう形で、非常に明確な形、わかりやすい形といえるかもしれません。人間を作る。所与のものじゃなく新たに人間を作るのだという作業がこうした村の一角、あるいは家屋のある空間で遂行されていくということになります。
で、こういう正装すると。で、こういう状態の時には、ぺたぺたと普通に歩いてはいけない。大地に足をつけて歩いてはいけないという風にもされています。それは、この女の子達は今人間であると同時にウヤウ、まぁ精霊と訳していいと思うんですが、精霊でもある。で、その行為の有り様というのは通常のものとは異なっているのだということです。で、この装飾品としてつけている、まぁタカラ貝の一種の小さなものですけれども、ここは海岸部から遠く500キロ以上離れています。さまざまな交易ルートあるいは民族集団間の戦争、そうしたもので、彼らがあるときは略奪し、この村の中で保存というか使用しているものです。
で、これはやはりハウスタンバラン、この小屋の中でしか扱うことの出来ない楽器ですけれども、こうした楽器、それから木彫の類はいっさい外に触れない、人目に触れるような場所には置きません。バヒネモ語でガァーといいますが、非常に聖なるものと翻訳してよいと思います。ただし現在はいわゆる観光あるいはミッションの政策によって彫刻はツーリストに売りなさいよ、それで現金収入得られますよということで彼らも売りに出している。あるいは90年の時私写真もビデオも撮ったんですが、去年久々に里帰りしたら写真撮ったら「おまえ金払えよ」と。写真1枚に1000円取るというようなことも出てきています。
で、話に戻ります。そのようなところで彼らは生活を送っています。
で、サゴヤシから澱粉をとる。それぞれにはそれぞれの道具があります。それに適した道具があって、澱粉をとるには先ほどの石の道具、それからブッシュで野豚を狩る、これは竹でできた弓矢です。で、先ほど言いましたように、たとえばバヒネモ語で弓矢のことをバァーといいますけれども、それ以外に一族で弓矢に関する名前のリストがありまして、その名前のリストの中から制作者が名前を付けて使っていくと。で、ある名前の弓矢は非常に大きな力を持っているってなことも言います。それから川を移動するにはカヌーを使いますし、カヌーも同様に名前があります。で、さっき見ました儀礼も、木彫であるとか仮面とか、いわゆる楽器の類がありまして、更にスカトリゼーション、傷ですね。体につけていくということもかつては行われていました。[61'40]
写真撮ってきたんですけど、どっか写真いっちゃいまして今回ちょっとお見せすることできないんですが、非常に鮮やかな文様です。さまざまなものには名前が付けられて、そして名前と同時にストーリー、彼らの表現でストーリー、これピジンイングリッシュですが、がつけられます。バヒネモ語ではバヒといいます。バヒというのは、音であるし、言葉であるし、そして同時に物語りであるといいます。たとえば「日本語」のことを「バヒロヤパン」「バヒロジャパン」「ジャパンバヒ」といいますが、それは日本語ということを表すと同時に、日本という場所で生じるさまざまな音、騒音。そしてまた同時に日本についてのさまざまな物語ということになります。
彼らは私に日本の話、だから「日本のバヒを聞かせてくれ」といいます。そして私が、そのバヒネモ語あるいはピジンイングリッシュで日本の話をします。しかし彼らはそのとき聞くんですけれども、同じことを何回も何回も聞いてきます。で、おかしいなと思っていたんですが、今度はその話を他の人に伝えるかというと伝えないんです。なぜ伝えないのかというと、彼らはバヒ、つまり日本のバヒが、自分は日本語がしゃべれない。日本語がしゃべれないということは日本の音も知らない。経験もしていない。そして従って日本についてのさまざまな話も伝えていくことはできないのだと彼らは語ります。鉛筆1つについても、日本のバヒというものを経験していない以上ここには日本の話、これについての日本の話はできないといいます。ただ興味深いのは彼らはそこに自分らなりの話を、私がたとえば鉛筆をあげますと、そこに彼らの話をこの鉛筆に込めてつけていくということです。
で、ハウスタンバランに置かれる木彫、さっき出てきましたが、ガラァとバヒネモ語でいいますけれども、それぞれにはいわゆる固有名詞なるものがつけられています。そしてそういう固有名詞のリストですけれども、その存在は、あるいはそれに関する知識というのをバヒネモ語でフォクといいます。それはまたデザインの源泉でもあります。ところが、これもそうなんですが、非常に定型的な形の決まったデザインではありますが、その中でいろいろな遊びを彼らは施していきます。その中に、なぜこんな文様つけたの?っていったら、自分の夢の中に出てきたんだとか、自分の好きな女あるいは川崎の顔がここに浮かんだというようなものもその中にどんどん吹き込んでいきます。しかしそれらは彼らの中ではフォク、ある種の知識として語られます。そしてこのフォクというのはイニシエーションを経ないとフォクはないと彼らは考えています。だから子どもはさまざまなものが想像できない、ものを作ることができないというようです。
こうした、また出来栄えなんですが、さまざまなものにはいろいろなバリエーションがあります。そして,またその出来には機能といいますか、さまざまな効果効能もあるわけですけれども、効果もあるわけですけれども、たとえば弓矢でも、やでも殺傷能力の高い矢とそうではない矢ができるわけですが、そうしたある効力、力を発揮する道具、ものというのはその作り手の中のタタク、まぁ力だと思いますけれども、それによるという風に考えられています。[66'00]

さて今度は、ものと記憶の話ですが、セピックにしてもバヒネモにしても日本語で捨てるとかいうものにあたる言葉がなかなかありません。強いていうなら、ものが自分の身を離れる、ルーシィムってこれはピジンですが、ルーシィム、いったん離れるという言葉を使います。それから忘れるという概念がどうもバヒネモ語にしてもピジンにしても見つかりません。ルーシィムティンティン、つまり、思いをどこかに置いてきた。そばに置いてきたと表現します。
私もインタビューしてて、「昨日たとえば何食べた?」といったらしばらく黙ってます。で、忘れたのかなぁと思って「わかんないの?」と聞いたら「わかってる」というんです。「わかってるんだったら何食べたの?」って聞いたら「んー」。「わかってないんでしょ」ってそういう禅問答のようなことがあります。で、どうするかというと、「ちょっと待て」というわけです。そして自分は今ここから離れて昨日に行って、昨日に行ってとってくると。で、またそれから今へ戻ってきます。
バヒネモ語の時間、時制というのは非常に面白くて、今を中心にして同心円状に広がっていきます。昨日と明日という言葉が同じなんです。イョフといいますが、昨日は概念上は明日につながります。それから1日前は1日後、2日前は2日後という風に、過去とある意味現在がなんていうんですか、同心円っていうか、その中でシンメトリックにつながっていっています。で、ある種距離として、空間的な距離として彼らはどうも認識しているようです。そういう意味で忘れるという言葉がなくて非常にこれ難儀するんですけれども、結局これ思い出、記憶といってどうかわかりません。ある時は自分の身をその場所に動かしても行きます。
「昨日ジャングルで何したの?」といったら同じように落ち着いていって「あ、ここで何をした」と話してくれます。つまり「見つける」、これもピジンですがパイニム、これファインドから来てますけれども、見つけるということです。
その一方で、日本語で捨てるという風に敢えて近い言葉がありまして、それはフバというバヒネモ語がそれに当たります。しかしフバというのは、元に戻すという意味合いも込めています。今もフバというのは、捨て去った人間、捨てた人間という意味なんですが、これはさっきいいましたフォク、さまざまな社会的な知識とか道理とかルール、そうしたものを見失った人間という風にもいわれます。あるいは私が何々、たとえば私がボールペンをフバ、捨てる、フバするというのは、元に戻してやると。つまり彼らのさまざまなものの源泉というのは、資源というのはブッシュにあるものですから。ブッシュにあるものはそのままの状態にすれば必ず元に戻るという風な認識です。
従って、どうも私達はものを加工したり、一方向的にそれを消費したりという、一方向のベクトルしか考えていないわけですけれども、彼らの世界の中にあってはそれがまた元に戻って、解約可能な世界の中にあるように思います。そういう意味では、家の中に種種雑多のものが非常にあふれかえっているんですけれども、ある時はその家屋の外に、あるいはジャングルの中にそれらを置いていくというだけで、我々の行為でいう捨てるということではないように思います。
それからこの記憶というか、ものなんですけれども、先ほど言いましたフォクという概念はイニシエーション、儀礼に伴って与えられるものという風に考えられています。ですから儀礼を受けていない子どもにはこのフォクがないと彼らはいいます。従いまして、過去にあるいは未来にどのようなものが起こるか、あるいは起こったのかということを尋ねても彼らには答えることができないのだという風にいいます。そしてまた男のフォク、女のフォクというのがありまして、その中で彼らはストーリーを語っていきます。
そういう中にあって、これはたぶん多くの、いわゆる神話的な知識あるいは精霊の知識によるものなんですけれども、その一人一人のさまざまな個人の記憶、それを思い出とするならば、そうした思い出もあるわけです。それについて彼らは、これピジンですがキシム。なんか見つけるんじゃなくて、とってくるというような表現をします。今写真に写ってるのは向こうのセピックの一人のおじさんですけれども、横に写っているのは、これ戦時中に亡くなられたカトリックの神父さんです。[72'10]この神父は日本人によって殺害されたという風にして公式的な記録には残っています。しかしこの右にいる方は、横に憲兵隊のマークしてるんですけれども、戦時中に日本の憲兵と共に従軍されて、そしてこの左の神父さんを実際にとらえた人です。という風に彼は語ります。で、この神父は日本兵が殺したのではなくて、私がずっと捕虜として捕まえて食事を与えて、そしてウェアックという街まで連れて行った、送還したんだと。で、そのときに米軍、連合軍の空襲があって、その空襲でこの神父はどうも亡くなったようである。目撃はしなかったけれども、監禁されているところまで運んでいったと。そのあとすぐ空襲があったからたぶんそれで亡くなったんであろうということです。彼がそのことをしきりに一つの思い出として語り、で、私も88年にこのカネガウイという人ですが出会いまして、この神父の事件についていろいろ調べました。その結果このカネガウイさんの証言をタイピングしてカトリック教会の方に持っていきまして、カトリック教会の方で50年ぶりに、要するに日本兵が殺したのではどうもないということで、なんていうか大げさにいうと、歴史が一つ書き換えられたようです。彼はこのような、まぁ誰に撮ってもらったかわからないんですが、自分の当時の憲兵隊の腕章とこの神父の写真をこういう形で向き合うようにセットにして保存しているということです。

で、ものの手に入れ方っていうのはいろいろあるんです、もちろんあるわけなんですけれども、これは非常に分析的です。もらうとか奪うとか買うとか拾う、いろいろありますが、このキシムという風にして、これピジンです。表現されるものの中には、また現地語ではさまざまな言い方があるんですが、非常に定型的に一つの形式的な形に乗っ取って手に入れることのできる行為があります。彼らはコンペンセイションと呼んでいます。これは英語のコンペンセイションから来ているんですが、どうも償いと本当に訳していいのかどうかわからないものがあります。
婚資、婚資の払い戻し、さまざまな婚姻関係に基づくもの、現金のやりとりなんですが、それを彼らはコンペンセイションと呼んでおります。なんでコンペンセイションなんだって尋ねるんですけど、もちろん現地語はありますが、それを彼らは償いというようにとらえているようです。
もう一つは非常に定型化したコンペンセイションではなくて、ある種の非常に個人的な意図といいますか、それに基づくおねだりと。これはもらい方もさまざまでして、その手続きもまちまち、非常にバリエーションの多いものです。これは貰うというのは、いわゆる相手に、相手の意図を確認する方ですが、もう一つは奪うというのがありまして、もちろんピジンではキシムといいます。これは非常にある種儀礼的あるいは社会的にぶんどってくることが可能なもの。その典型的なものは紛争といいますか、闘争です。盗むものは、つまり奪うものは女、それから現金ももちろん可能ですし、すべての物を奪う。
で、面白いのはさっきいいましたフォク、つまり知識も奪ってくるといいます。彼らは異なる言語集団は敵なんですが、ヘッドハンティングしまして脳みそ喰っていきます。で、これも事実かどうか全然確認できませんが、あくまで語りの話というならば、その脳みそを喰って敵の知識を奪うんだという風に彼らは語るわけです。
で、もう一つは盗みというのがありまして、これは村の中で御法度とされているようなものです。[77'35]で、先ほど言いましたサゴヤシであるとかバナナであるとか、さまざまな作物にはそれを植えた人の名前がありまして、それを承諾なしに盗むということはいけないことだというわけです。更に、いずれももらうとかいうものも、大きな意味では交換の体系なんですけれども、もう一つは買うという市場交換のルートの中に入ってくる。まぁ現金の中での現象が出てきます。それぞれもらう、奪うという中にこうした市場交換の、現代的な貨幣というものも当然入って来ました。そこで複雑な要素があるということです。
もう一つは拾う。これ非常に多いんですが、川というのはさまざまなものを運んできます。川上で洪水があったりすると、家とか流れてくるんですが、彼らはそれをそのままキシム、バヒネモ語ではウァウっていうんですが、要するにいただきましょうといって素材にして使っていきます。家も拾いますし、流れてくるものは全て資源でありますので拾うという行為があります。これはもちろん意図的にあるいは儀礼的にできるものじゃなくて、拾ったもの、拾うというものはきわめて個人のものとして利用ができるということです。
これは何かというとこれは白檀です。これは中国商人が最近目をつけまして、ブッシュの中でとるわけですけれども、これらはいずれも個人のものとして売買されていきます。
これはサゴ幼虫ですけれども、サゴは個々人が植え付けていきますけれども、そこに虫がたかって甲虫になるものは決してそのサゴの植えた人のものではなくって、それを見つけた人のものになるというのがあります。こうした自然環境、蛇行した川の中で彼らの生活が行われます。
一方市場では、日常生活で使われているものも現金を介してやりとりがされます。ここにあげてるのはさまざまな、いわゆる民族芸術品ですけれども、外国人を対象、観光客を対象にするだけではなくて、その村々のいわゆる伝統的な祭礼であるとか儀礼に用いることも可能なものとして仕上げています。
部屋の中は、これ炉を切ってありますけれども、灯油ランプであるとか、このバケツは川崎というバケツなんですが、私のバケツじゃない。鍋なんですが、18年間彼は使ってくれてました。日本製は強いということで重宝してくれてますけれども、それぞれ特に、たとえば私が置いていったものには、たとえば「かわ」「さき」とか名前を分けてつけたりもしております。
さっきの償いということですけれども、非常に慣習化されて手続きの中でもっぱら人への対価として、これはやりとりされるものが決まっています。シェルマネー、それから豚、女。姦通を犯したとき、それから民族集団間で、部族間で戦争を起こしたとき、それぞれに償いをしている。その場合は罪を犯した方が大衆に自らの過ちというものを見せて、さらしていくわけです。
たとえば人妻を寝取った。そしたらしばらくすると姦通を犯した男は病気になってしまいます。で、それは精液が、自分の精液と夫の精液が混じって、その一人の女性の体内に混じることが病気の原因になるという風にいいます。私のインフォーマントもそうですが、浮気して、血管がバーッと浮き上がってきて体ががたがたがたがた震えだしてもう死ぬと。「どうしたんや」といったら「実は川崎、浮気した」と。「相手はどうも人妻や」と。で、「俺の精液が旦那の精液と混じってる」なんてことを言っていました。
そういうときはどうするかというと、シェルマネー(貝貨)を使いまして、シェルマネーを公衆の皆の集まる小屋があるんですが、そこにカゴ、ビルブという編み袋がありまして、その編み袋につり下げます。そのことによって、誰かが姦通を犯したということがわかるわけです。また実際に加害者、非をおこした人は、男の場合は旦那にその対価を後日出すということになります。旦那がそれを受けとらない、最終的には受けとるんですが、受けとらないまではずっとそのシェルマネーがぶら下がってると。まだこれ夫の怒りが納まってないんだなというのがわかります。それを補足するような形でキャッシュが使われます。しかしこれは金を積めば積んでもいいというものではなくって、必要なものはこのシェルマネーと。一番セピックで大きいのはシェルマネーになります。
これがそうですけれども、こういう形で現金、キャッシュと共にやりとりしていく。で、これは必ず見せるものということになります。で、さまざまな要求の中で償いとして戦後補償あるいは国と国、あるいは地域と地域での補償、コンペンセイションを彼らが要求するときもあります。その場合はシェルマネーではなくて、たとえばこれは通信機であります。あるいはこうしたウォータータンクですけれども、こういうものをNGOに要求してゲットするということであります。[84'16]

それに対して、ここでいうおねだりというのはアスキム、ピジンでアスキムといいますけれども、これは私の解釈であります。非常に個人的な思い出の獲得の手段であって、そこではある種のかけがえのなさ、そして捨てることのできないもの。その一つのあり方は、名前をとるという形で、そのものをしていく、手に入れるという行為だと思われます。で、最終的にフィールドからいろんな手紙が届きます。今日ここに持ってきたんですが、その一部なんですが、もう毎年毎年このように手紙がわんさかわんさかやってくるんですが、必ずなんか要求してます。ラブレターで熱い思いを女性なんかが書いてくるんですが、僕もドキドキしちゃうんですが、最後になると「川崎、乾電池送って」とかですね。可愛いんですが。そういうものもあります。
それから、この償いというので、これは一番大きかったのは、私裁判かけられました。で、「かけるぞ」と脅かされているわけです。バヒネモの村でおまえはバヒネモ語を全部覚えたと。全部覚えてないんですが、全部覚えてると。それからさまざまな習慣というものをおまえはとっていった。キシムしたと。だからそれについてコンペンセイションしなさいと。で、「なんぼや」といったら、日本円に直して大体1億円ぐらいでした。で、それは法外じゃないかと。ということで、もちろん無視したんですが、裁判にするぞということで、そこで登場したのが州の議員でした。で、議員が私のところに手紙をよこして、こうした裁判というのは不当であると。彼らは田舎の人間でそういうことわかってないんだと。ここは私が調停してあげると。任せておけと。で、ちなみにちょっとほしいものがあると。おまえが使っていた寝袋がほしいんだということで、私はそのときは裁判の代わりに寝袋で、1億円が寝袋で済んだら安いと思いました。寝袋をそっと渡したわけです。

で、こうしたコンペンセイションに関してはさまざまな理由を彼らは用意してきます。カスタムとピジンで呼ばれるような、いわゆる慣習的なものであるとか、あるいは先ほどもちょっと言いましたけれども、戦後の補償の問題もあります。これは日本の活動家が向こうで戦後補償の活動していたということもあって、その文脈の中で動いているものもどうもありそうです。従いまして、私は何か一つ行為をすると、ちょっと恐れてるんですが、コンペンセイションという言葉が出てきます。数え上げたら切りないんですが、女性にちょっと声掛けただけでも「俺の人妻に声を掛けた」と。「コンペンセイションや」と。すぐ、コートというんですが、村の中で「コート!」と叫ぶんですね。そうするとそこで裁判が始まるんですけれども。たばこ1本吸うにしても、何回も私はコートに立たされましたけれども。
で、もう一つはそうではなくて、いわゆるおねだりといいますか、まぁピジンでアスキムと。これはさまざまなアスキムがありまして、ほろりと来るようなものもあります。[87'59]たとえば、おまえが前フィールドで使っていた鉛筆、それが夢の中に出てきたと。で、それを見るたびにおまえの魂といいますか、ダファというんですが、おまえの魂が村までやってきてその鉛筆を俺にくれてると。これはきっと正夢になるに違いないというような表現で語ってきます。そうした、まぁ非常に難しいんですが、いわゆる私にとってはおねだりというようなものとに分かれるようです。
で、語り方も、村を代表するような語りもあります。これを償いといっていいのか、おねだりといっていいのかわかりませんけれども、自分が村を代表して、たとえばここにも村の一人一人の名前を書いたり、あるいは村の人数はこれだけいると。それぞれどういうことをしていると。全然僕は調査しなくても、その人が全部調べてくれて、で、しいては日本国政府におまえがパイプになってこれだけの援助資金を請求してくれというようなもの。あるいは、これも私が決して教えたわけじゃないんですが、自分のストーリー。ライプストーリーとピジンで呼んで、自分の話を私にずっと聞かせる。手紙に書いていたりとか。全然頼んでへんのに、これも非常に調査が楽で、ピジンで何枚にも渡って自分の話を語ってくれました。そのあとでお金がほしいなと。今困っているというような要求が一言可愛くついてあるわけです。で、どういう風にまとめたらよいか全然わからなくって、ものを捨てるとか、記憶というのは非常に密接に絡んでいるんだと思います。それについて僕はここでまとめて、これだということはどうしてもできません。ただ非常に断片的な、先ほど言いましたように、モザイクのようになっているものがいっぱいあって。それをどういう形でいったらいいのかなと今考えています。

非常に月並みなんですけど、よくやっぱり感じるのは名前です。関わりの中で、たとえば川崎という名の醤油があるんですけど、これは使わないんですよね。醤油腐っとるんです。もう10年前の醤油でぼろぼろになっとるんですが。ぼろぼろというか、ものすごく腐っちゃってるんですが、彼らは「なんだ?」っていうの、最初は「これなんだ?」って。「お醤油だよ」って、つけて食べるとおいしいよ。本当においしいねっていって一緒に食べた記憶が、思い出があるんです。その醤油を送っておくれというので、僕は彼らがそれを使うのかなと思って送ったんですが決して使わずに今も大切に持っていてくれています。もちろん使い方は知ってる。それを使うとおいしいというのも知ってるんですが、なぜかその醤油はキッコーマンじゃなくて川崎といわれている。
それから、いたる村に川崎がいてます。僕はこの前斎藤さんと一緒に行って「おまえ何悪いことしたんだ」っていわれるんですが、全然そんなことはないんです。ほんとうにそんなんじゃないんですが、村に訪れて、そのときに村の人達と話した中で、その人達がそのときに生まれた子ども達にさまざまな名前を、私達の名前をつけてくれる。ちなみにヤビオ、斎藤さんのフィールドでは川崎もいますし、吉田集而もいますし、山田洋一もおるし、斎藤尚文もいる。日本人名、変なところで切ってたりします。「かわ」と「さき」で切ったり、「かわさ」で切ってたり、「さい」で切ってたり。「しゅう」「じ」とか変なところで切ったりしてますけれども。切り貼りしながらとどめておくというものが見られます。で、名前を付けるのはいったい誰なのか。どういう由来で、なんてことも私も調べ始めてるんですが、もう一つ感じてるのは、一つのものにたくさんの名前が付けられてるということです。同じ唯一の、一つのものであっても、名前を付ける人はたくさんいてる。で、人間の名前もそうでありまして、一人の人間がたくさんの、複数の名前を持っています。[93'00]その中に明かすことのできない名前もあるし、その名前を付けた人との関係の中でつけられたものも多数あります。このものについてもそうですけれども、これは私の、デビッドという私の弟分が作ったヤツで、僕は「デビ、デビ」と呼んでるんですけどれども。それぞれ同じこのものについての、なんていうんだ。呼び名といった方がよいんだと思いますけれども。複数あるということです。
そのように考えてみると、僕たちの日常の中にいっぱいものあふれてるんですが、全部名前ないなぁと。机にヨウコとかって名前つけてもええんちゃうかなとか。乗り物なんかには結構名前つけたりするんですけれども。こういうめがねとかすべての物に思い思いの名前つけていくのもええんちゃうかなという風に思ったりしたわけです。最後ちょっと陳腐なんですけれども、こういう形で私と彼らのお付き合いがあって、そこにいろんなものがやりとりされてるというお話でした。すみません、どうもまとまりがなくて申し訳ございませんでした。[94'21]

[一同] [拍手]




討論

[野島] ありがとうございます。3時半ぐらいまでディスカッションという感じでしょうか。何か質問とかコメントとか。

[南] すみません。じゃぁ。今おっしゃった最後の話なんですが、いくつも名前があるっていうことは、たとえばその女の子が川崎と呼ばれるのは川崎さんがいったときだけそういう風に呼ばれるんであって、ほかの日常の普通の村の生活の中ではそうじゃないってことは考えられるんでしょうか?

[川崎] はい。それも考えられると思います。少なくとも私がいったときにしか、その名前は確認はできません。ただ、そうですね。うん、確かにその通りだと思います。

[南] ですから今日、まだネットワークの話これから出てくるんでしょうけれども、そういう人がある場所に配した状況というかシチュエーションというかネットワークができたときだけ使われるような名前っていうような形もどうもありそうだという。

[川崎] 人の、人間の名前については、たとえばバヒネモでは4つか5つあります。最初に付ける名前というのがありまして、それは[聞き取れない][95'44]集団、一族のやっぱりリストがあります。各世代でそれを回していくようになっていまして、自分より一つ、隣接しない、もう一つ上の世代の名前の一覧からその1世代前の人が名前を選んでその人につけていく。ただそれは生まれてから1年後という風に決まってますけれども。それが第1の名前で、ただそれは明かさない名前なんです。だからわからないんですね。なぜかというと、これも話すと長いんですが、死者の名前を呼ぶとその死者の魂がふるえて、死霊がふるえて人を殺しちゃうといいます。ですから第1の名前呼ばないです。ただし非常に大切な名前としてプライオリティの高い名前だということです。それから2つ目3つ目という風に名前があって、2つ目の名前は絶えず、多くの場合は父親あるいは、そうですね、父親がつける場合が多いです。第3の名前はちょうど親族の広がりの中でだんだん遠い人が付けていくということです。それから名前も交換します。一番最初に付けられた名前はダメだけど、3つ目の名前を交換しようと。たとえばある人はマウエと、おまえの川崎をくれと。で、いや僕全部あげることできないといったら、じゃぁ川だけくれとか。崎だけくれというので、じゃぁ半分ずつあげたりということはします。

[野島] あげたら基本的にはそれは本当は使えないはずなんですよね。

[川崎] そうなんですね。

[野島] ちょっと困りますよね、それは。

[川崎] ええ。

[野島] すみません。いいですか?質問あるんですけど。まずそれ槍ですよね?それ、なんかあまり飛ばないような気がするんですけどそんなことないですか?

[川崎] ええ。これは、

[野島] それは儀礼的なものなんですか?

[川崎] 儀礼といいますか、いわゆるお土産にとして、彼ら特別に作ってくれたんです。こういうものができるとは僕全然思わなかったんです。要するに普段の道具としての槍しか見たことなかったものですから。ただ街に出たときにどうも土産としてこういうものが作られているというのを見たようですね。だから素材も全然違いますし。形状もそれらしいんですがまったく異質なものです。

[野島] なるほど。それからあと、先ほどイニシエーションの話で90年ぐらいに例の女の子のイニシエーションがあって、それ以降ない。あまりなくなってるみたいな話ありましたけれども、たぶんいろいろと社会情勢が変わったり、いろいろなものが変わったりしたということがあると思うんですが、やっぱりその辺何が大きく変わって、その変化があって、それはたとえば彼らにとって今までやっていたことがなくなっちゃうって大変なことみたいな気がするんですけど、その辺はどういう風に考えてるんですか?

[川崎] いろいろなケースがあります。一つは復活。いわゆる復活といっていいのかもわかりませんが、新たにイニシエーションを起こしているところも2000年代になって出てきました。この復活というのは、いわゆる文化政策的なところで国策がらみあるいは政治がらみで復活されてる気配もあります。と同時に、また全然違う文脈で、文脈といいますか、これ私の解釈なんですが、こうしたイニシエーションというのは本当に毎年のように行われていたのかどうか。それからこの精霊小屋なんてものは常にあって、ものとして存在してあったのかどうかというのも僕はちょっと疑問に思っています。人類学者はきわめて、たとえば儀礼であるとか、ハウスタンバラン、儀礼小屋というのを注目して、その民族を代表し、非常に代表的なものとしてとらえてきたわけなんですけれども、その儀礼の生態史というか、スパンを見てみると、少なくともバヒネモは移動民、ノマドでした。ですから常にあるところに精霊小屋って儀礼をしてたというわけじゃ、おそらく決してなくて、ずっと話を聞き取っていくと、おそらく空白の何十年間というのがあって、そういう定型的に儀礼を行うものではどうもなかったみたいで。おそらく最近になってかなり毎年あるいは年中行事化されて、我々が、要するに人類学者がイニシエーションと呼んでいる形になったのかもしれない。だからそういう意味でいえば、私は今なくなってるといってますけれども、彼らにとってはいわゆる儀礼の生態学の、生態という中でやっている。おそらく何年か後にまたその場所を移し、その中でやり始める可能性は十分あるんじゃないかと思います。それから、はい。[100'51]

[野島] [聞き取れない][100'54]

[川崎] それ以外に意識の面としては90年から2000年にかけて、いわゆる伝統についての意識とか議論が、このバヒネモにしてもセピックにしても変わってきてます。それはやはり外との関係、開発の関係であったり、そしてキリスト教の教会の活動との関係があるようです。特に、いわゆる日本でもバブル期以降キリスト教の教会もお金がなくなって布教活動あるいはもののサービスの提供充分いかない。で、こうした儀礼をやめるというのもある種、特にプロテスタント系ミッションの影響でなくしたところあるけれども、結局キリスト教徒になって教会作っても何らサービスで得られることないじゃないかと。いったんは90年代やめたけれども、じゃぁ我々にとって、自分たちにとってこうした精霊小屋というのはもっと潤いを、幸せをもたらしてくれるものかもしれないと。やっぱりそういう中でイニシエーションって重要な役目を果たしてるのかもしれない。で、我々人類学者が注目していたような民族史なんてものを彼らが自分で読んで、更に復元していくという村もあります。

[野島] ありがとうございます。ほかに何か。はい、どうぞ、清水さん。

[清水] さっきの名前の話と少し関連するかもしれないんですけど、セピックの地域の人達の間で祖先とか過去の人ってどういう風な位置づけなのかなというのをちょっと気になるんです。系譜というものが、たとえば東南アジア、大陸、まぁ日本もそうだと思うんですけど、東アジアとか、あるいは祖先の思い出。祖先というのは思い出のかなり重要な部分を構成していると思うんですけど、この社会ではそういう人達どういう風な位置づけなのか。あるいは、まぁアジアの大陸部なんかを見ると、社会を持続させていくっていうことに関してもたぶん祖先の集大[?][103'12]とか追憶っていうのがかなり大きな力になると思うんですけど、そこら辺ちょっと教えていただきたいなと思います。

[川崎] 名前を持って、固有名詞で語られる死者。死んでも名を残す人。そして記憶にとどまっている人と、いわゆる人格がなしに、もっと抽象的なアンセスターになってしまう。大きくいって2つあると思います。死生観というか、死のありようとも関係しているんだと思いますけれども、バヒネモでは一般的に社会的なモニュメントを起こした、行為した人というのは語り継がれていく。で、世代進度も調べましたが、深い、僕の感覚としては深いと思いますが、7世代までいきます。それは非常に小さな社会でして、村の人口はわずか100人なんですね。その中で、いわゆるクランと呼べないと思うんですが、いわゆる一族っていうのはメンバーにしても10人とか20人なんです。そこで7つ世代を深くいけるというのはかなり深いものを持ってると思いますけれども。さっきもいいましたように、その人の名前を呼ぶと人を殺したり、呪う、スソできるというのもあります。その一方で全然違う、彼ら語る祖先達の世界ということです。

[清水] 祖先と結びついたものとかそういうものはありますか?

[川崎] はい。それが、これは土産物ですが、こうした道具ですね。それからカヌーであるとか。全てそれは。あと精霊小屋の中に置かれているようなもの。語りの中では祖先と結びつけられています。

[佐藤浩司] 肝心なところでいなかったのでちょっとピントはずれかもしれないんですけど、前に僕の本に書いてくれたときには、人間なんてものは存在しない、それは作られるんだっていうような話でしたよね。男は男らしく作られていくし、女は女らしく作られていく。だから人間、男にしろ女にしろ文化的な意味を持った人間というのは社会が作っていくんだというような話だったと思う。今日もたぶんそういう話から入ってたんですけど、ものについてもそうだということが全体として今日の話のトーンだったんですか?ものも作られてく?

[川崎] やっぱり作られていく。

[佐藤浩司] で、気になったのは、個人の思い出とかいうことが出てくるわけですよね。社会的に人間は作られるわけで、それは個人的に作られるわけじゃないから、女性が作られるときにはある作る人がいるけれど、でもそれは個人的に作っていくんじゃなくて、ある意味社会がそれを受け入れていくような素性があるわけですよね。一方ものについては、たとえば川崎醤油については、それは社会的に共有されてる名付けじゃないから、ないんだよね、きっとね?

[川崎] うん、ないね。

[佐藤浩司] そうするとそれを持ってた人が亡くなったときにはそのものはどうなっちゃうんですか?

[川崎] それ燃やす。なくしちゃう。なんだろう、元に戻す。

[佐藤浩司] 森に返すの?

[川崎] 元に返す。フバ。

[佐藤浩司] それは人が死んだとき?今フバは僕は聞いてなかったので。

[川崎] あ、人が死んだとき、そうです。フバは。

[佐藤浩司] ポイ捨てなんですか。

[川崎] ええ。

[佐藤浩司] あぁ。

[川崎] で、もっというと、ある人に僕が醤油を渡す。で、私が亡くなったときに、この私が渡した人の一つ下の世代が私に贈り物を返さなきゃならない。私の子ども達にものを返すと。だからそれは非常に社会化された。

[野島] それこそこれですよね。

[川崎] ええ。

[佐藤浩司] 逆に死んでもなくならない、捨てないものもあるわけですよね?

[川崎] うん。

[佐藤浩司] それはいわゆる個人とは切れてる?

[川崎] 切れてる。

[野島] いい?

[佐藤浩司] はい。

[野島] ほかには?はい、どうぞ。[108'18]

[山本貴代] 大変興味深く。昨日へいって記憶をとりに行くって表現が非常に面白いなと思って伺っていたんですけれども、バヒネモというその言語集団は400人とおっしゃって、700の言語集団がほかにもいるっておっしゃったんですけど、どうしてそのバヒネモを選んで研究するっていうのは?なにか特別ほかの民族とは違う、

[川崎] いわゆる民族的な、

[山本貴代] 民族的っていうか、言語的とか、名前を付けるとか、そういういろんな意味で、何かそこのバヒネモは特別な、400人でしたっけ。そこはほかの人達と特別違う特徴というのが会ったんでしょうか?

[川崎] ないです。

[山本貴代] ないんですか。

[川崎] 大きくいいますと、自然環境的にセピック川という大きな川沿いに暮らす人達は集団の規模が大きくて、生業もヤムイモをとって、人口の集中がわりと多いのです。で、バヒネモ、あるいはその周辺の、近辺のいくつかの民族集団は本流沿いから離れて、もともと、1960年代までは山の丘陵沿いに生活をしている人達。で、狩猟採集を生業としていた。もちろんサゴも食べますけれども。そういうような特徴を持った人達です。いわゆるセピックヒルといわれる、セピック丘陵グループというのがありまして、言語的にはまったく近親、ある程度まとまりあるんですけれども、基本的には言語的にはまったく異質で。そうですね、道具も一部似通っているところ等々があるような形ですね。

[山本貴代] 戦争みたいなのは?

[川崎] 基本的には1960年代までは戦争状態でした。今もそうですけれども。

[黒石] 私もすごく面白いなと思って聞いてたんですけど、少しちょっと違和感があるところがあって、たとえばものを捨てるっていうことは、たとえばものを元に戻すことだとか、思い出すっていうのはとってくることだっていうような言葉っていうのは、日本のたとえば古い歌の中に出てくる言葉なんかでもそれに似たような表現っていうのがあるっていう気がしているんですね。その一方で、さっきのコートっていう叫び声ですぐ裁判が始まるっていう話とか、コンペンセイションっていう言葉の中にすごくいろんな、もともとの英語のあれとは違うものがいっぱい入っているっていうご説明だったんですけど、なんかその人達が思っているある概念っていうか、暮らし方とかものの考え方のつながりっていうのと、その言葉、言葉は英語がかなり入ってるっていう話でしたけれども、その言葉によって変質された部分っていうのがなんかごちゃ混ぜになって話されているような気がして。

[川崎] はい、そうです。はい、そうです。

[黒石] で、それっていうのは、この研究の意味っていうのがどういうところにいくのかなぁというので、ちょっと混乱を私はしてるんですけど。たとえばそういう何か人間のものの考え方や感じ方の、根元的っていうかね、ある意味ではおねだりしたりとか、いろんな償いの感覚とかなんかもかなり昔の日本の古代社会にそういうのってあったような気がするんですけどね。そういう根元的なものを引き出すために、こういういろいろ、そういう今の私達の感覚から失われた部分を拾っているというのが主体の目的なのか、あるいは外から入ってきた言葉によって、彼ら自身のものの考え方がすごく異次元的なものがよけいはっきり出てきちゃってるっていうのを明らかにしたいのか。そこら辺をどういう風に整理したらいいのかが。

[川崎] 基本的には先生がおっしゃった後者の方ですね。このピジンという言葉自体ができて大体100年なんです。で、リンガフランカとして、ある種自然発生的にできた。プランテーションと共にできた言葉なんですが、そのあとキリスト教の教会、特にカトリック教会がその布教のための言語政策としてピジンを布教言語として用いていきます。そこで文法を整え語彙を制度化し辞書を作ってパプアニューギニア北部の旧ドイツ領の上をワッと広がっていくことになります。一つはその言葉のレベルでいえるんですけれども、それと同時に、たとえばプランテーションに出かけて、1920年からだいぶもうそうですが[?][114'05]、プランテーションに出かけていく人がそこで、いわゆる西洋文化、彼らがいう西洋文化の香りあるいはもの、情報というのを村に持ち込んで来ます。それは必ずしもいわゆるドイツの文化、ドイツオリジン、イギリスオリジンではないものも含まれますけれども、そういう中で言葉自身もいわゆる現地語といいますか、バナキュラーなものもそのピジンとの関係で大きく変容してきている可能性はたくさんあると思うんです。で、私は、少なくともこの部分は普遍的、っていうか全然変わることのない伝統的な概念としての現地語がありますよ、で、これは新しく起こった現代的な近代的な言葉ですよ、という両者をきちんと分けてやるのではなくて、今はその中でまさにコンフューズというか、ごちゃごちゃになっていて、その中で、要するに僕はピジンと現地語で分けてますけれども、彼らにとってはそれは一つの全体的な言葉として語られるものだ。だからこれは私だけの会話じゃなくて、村の中での彼らの言葉でもピジンと現地語は混ざってきてます。

[加藤] すいません。[115'36]遅れてきた加藤です。申し訳ありません。私は個人的なものの捨て方というか、処分について関心があるんですけれども、2つ細かい質問と名付けのことでもう一つ教えていただきたいんです。一つは川崎醤油というのがなぜ使われないのか。送ってくれといえば送ってくれるものなのになぜ10年間使われないのかっていう、それは川崎先生の解釈がお聞きできればいいなと思うんです。もう一つは女性のイニシエーションのビデオで90年っておっしゃったんですけれども、ブラジャーをしてるんですよね。[聞き取れない][116'14]私はもし川崎醤油が海外的、まぁエキゾチックとかいわないと思いますけど、なぜか舶来のものだから大事にしたりして使わないとかって、よく日本の人間が頂き物はそのまま使わないで置いておくみたいなのでいくと、道具ではなくて何か象徴的なものだったり、思い出を付加されたものだから使わないとか、あとなんとなく海外のものっていうのは大事にするとか、そういうのがあるのかなとチラッと思ったのでブラジャーにいったんですけれども。ブラジャーをすごく大事にしてるのかと思ったら、施したりして、色が付いたりとかいろいろついてたりしますよね。で、どうもワイヤーのあたりっていうか、ワイヤーっていうか、見てたらちゃんと海外製というか、大量生産のブラジャーをしてるので、あれは90年前後の流行として彼女らがアウターとして、私達にはすごく不思議な感じなんですけれども、あれをする方が肌を見せるよりかっこいいとか、隠した方がいいっていう文化が現実的に入ったから[?][117'19]、なんか理由があってブラジャーをするようになって、みんなが「じゃぁ私もしよう」みたいにしてやってたのか。ファッションとしてブラジャーを使っていたのか、もう少し何かキリスト教的なものが入ってしまって、新しい文化として入ってしまったのかという、そのブラジャーのがもう一つの細かい質問で、3つ目は名前を付けるということの、車には日本の人でも名前を付けることがありますよねっておっしゃったんですけれども、昔ロボットを日本が作ったときに「モモエ」とかってつけたっていう話が結構有名な話であって、そういうことをするのは日本人だけだっていう風にその頃いわれたそうなんですけど、それは何か執着が強かったり、思い入れが強かったりすると名前が付くというような、ロボットの時は解釈だったと思うのですけれども。そうすると我々の生活は大量生産された商品をたくさん使っているがために一つ一つに名前を付けることをだんだんやめてしまったという風に逆に言うことができるのか、それとはちょっと、そうではないっていうふうにお考えなのかっていうのを3つ目に聞かせてください。すみません。

[川崎] はい。いえいえ。難しいですね。醤油が使われない理由。解釈ではなくって。んー、なぜ使われないのか。なぜ使われない。えーと、醤油というものを使う。私達が通常、私達が醤油という風にはもちろん見てないわけですよね。彼らの村の中でもちろんいろいろなもののやりとりがたくさんあります。たくさんありますけれども、その中でいわゆる消費してなくなってしまうもの。今何やりとりしてるのかなとちょっと思い出してたんです。一つは豚とかいう、食料になるものはやりとりします。トランザクションにも書いてあります。それは消費します。ただそれ以外のものというのは、基本的には消費の対象じゃないんです。だからなぜ使わないのかというよりも、逆になぜ私達は醤油があったら使ってしまうんでしょうか。醤油にしろ石けんにしろなぜ使ってしまうんでしょうね。いろんなものを送られて。

[久保隅] その醤油っていうのは誰かの個人的な家庭にお渡ししたものなんですか?それとも村全体に?

[川崎] いえ、そのある人。

[久保隅] あぁ、そうなんですか。

[川崎] 人です。

[久保隅] んー。

[野島] なんで使うのか。

[川崎] 食すもの、使うものを彼らは求めたわけでは決してないんだろうと思います。

[野島] やっぱり川崎って名前がついたからですか?

[川崎] ついたから。

[野島] たとえば、食べ物はいろいろあげたりはするわけですよね、ほかにも?たばこあげたりとかって。

[川崎] ええ。

[野島] そういうの消費しちゃいますよね。きっと。

[川崎] あ、それでストーリーの話でいいますと、それに話がつきます。どういう話が付くかというと、今まである話の中で、たとえばある山になんとかという人がいました。その人がずっと下りてきてこういう人に出会いましたという長いストーリーがあります。で、自分たちはその結果ここにいてる。そしてこういうものを食べてる。それはいわゆる神話なんですが、神話といえるかもしれません。その中に醤油が入ってきます。で、川崎がやってきて、川崎が送った醤油であるという中でこう、醤油にある話がずっとつながっていくという形ですね。答えになってなくて申し訳ないですが、それからブラジャーは、これキリスト教の影響と、それから近代的な商品の流通がもちろんあるからです。ただこの意識の話ですが、僕もあれ違和感ありました。彼らはいわゆる正装しているというんです。[122'24]きちんとしているんだというんですね。これはカトリックの影響もあるんですが、プロテスタントは基本、多くのプロテスタントはああした儀礼というのはとことん破壊していきます。カトリックの場合は、セピックでのカトリックの場合はいわゆる現地的な、バナキュラーなそういうものを残していくという政策をとっています。ただしその際に、たとえば教会に行く際にはきちんとした服を着なさいよ、そしてそれと同時にああした儀礼にはきちんとした正装を、という考えもこのキリスト教布教、これは70年以降ですけれども、この地に、ビデオ見たところに入ってきていると思います。そういう中で彼ら彼女らは少なくとも正装という形でブラジャーをしています。普段したとこ見たことないです。あの場で初めて見ました。どこに隠してたんだと思いました。あれも、ブラジャーもたぶん個人のものじゃなくって。

[加藤] 違うんですか。

[川崎] ええ。

[加藤] 個人的な所有物ではない。

[國頭] ユニフォームみたいなものですよね。

[川崎] そうなんですね。

[大谷] 衣装。

[川崎] 衣装。

[加藤] じゃぁサイズが合わなくてもいいわけですね。

[川崎] 今度はブラジャーの数調べてきます。あとものの名前ですよね。

[加藤] はい、ロボットに日本の人達が、初期の、初期のじゃないな。昭和30年代か40年代初めぐらいにモモエとかって、ちょうどそのころにできた、何のロボットかちょっと忘れたんですけれども、名前を付けて非常に技術者達が可愛がったというか、手塩に掛けて育てたっていう話で、それは日本人ぐらいしかそういうことはしないという風に日本の文献みたいなところで簡単に言われていて。それはさらっと、日本人はアニミズムを持っているからそういうことをするんだみたいなことをいうんですけれども、でもそれだけではちょっとやっぱり説明がつかないと思っていて。それはなぜモモエとつけるかっていうのは、共有された思い入れが強いっていう理由でいわれるのが一番わかりやすかったんですけど、そうすると。

[川崎] 川崎醤油なるものも。それはやっぱりなんていうか、社会とこうした個のせめぎ合いというか、そのものというのがきわめて個人由来、個人の、もちろん誰かが作って誰かが使うわけなんでしょうけれども、そうした個人にきわめて密接に関わっていながらも、それがやっぱり社会化されていないとものとして存在し得ない。言葉もきわめてそうでしょうし。だから、えーと。

[佐藤浩司] たとえばね、それが醤油じゃなくてお酒だったら飲んじゃうわけじゃない。それでね、残しておくから名前を付けてるんじゃないの?残しておくために。

[川崎] うん、それはある。

[佐藤浩司] 飲んじゃうのに名前つけられないよね。

[川崎] うん。そうかもしれません。

[加藤] それと私達が大量生産の中にいなかったらもっともっとそういう風に一つ一つのものに名前を付けたというのに、私達はつけられないほどいろいろな新しいものがどんどん入ってきて、捨てるという概念があって、流れていっちゃうから名前を付けてるタイミングがあまりないけれども、そうじゃない社会だったらやっぱりつけていくものだっていう風に理解してしまっていいのかどうかっていう。

[川崎] すべてのものにじゃぁ名前が逆にあるのかというとそういうわけじゃない。[126'21]あるものとそうじゃないものの区別っていうのはもちろん。ただその境界というのが、社会的にきちんと言葉に説明されて、こういうものだから言葉は必要ないんだよというのじゃなくて、きわめて、さっきの人の名前もそうかもしれませんが、その場であるとか、コケーション[?][126'52]とか、そういう中で瞬時に切り替えて使っていくようなものなのかもしれません。だから確かにそれもかなり個人差がある。ある人はあるものに名前を付けるけれども、じゃぁそのものに別の人は必ず本当に名前をつけてるのかっていうのはそうじゃないと思います。その方面について調査というか、今まで関心を持ってなかったので今度いったときには何にいったい人は名前を付けてるのか、つけてないのはなんなんだと、それを一つ調べてみても面白いかなと思います。

[野島] でもそれは川崎さんと名前が付いてるけどってこともありますよね。

[川崎] そうなんですね。だからインタビュアーを変える、あるいはクロスチェックをさまざまにしていきながらやっていくのが方法としてはいいんじゃないかと思います。

[安村] よろしいですか?[127'46]すみません。いや、非常に面白くて、ちょっと聞き逃したところもあるかもしれませんが、前にブッシュマンだとかピグミーだとかの話聞いたときに比べて、なぜか最初から親近感があるのがなぜかなぁっていうのが非常に不思議だったんですけれども。それ波だから要するに大洋同じ圏ということがあるのか、それとも何か我々が既にこのパプアニューギニアの人達のを映像で見たり知ってることがあるのかどっちかなぁと話聞きながら思ってたのが一つと、さっきのおねだりだとか、コンペンセイションですか?こういうやつがこのセピック特有なのか、それともパプアニューギニア全体なのか、もうちょっと広がりがあるのか。どのぐらいのローカリティのある慣習なのか、その2つがお話聞いてて疑問だったんですけれども。

[川崎] パプアニューギニア。一つ目の方はメディア等々でかなり伝わっている、そのイメージも非常に大きく影響しているんじゃないかと思います。

[安村] あぁ、なるほど。

[川崎] そういう意味では逆に、その対としてブッシュマンであるとかアフリカであるとか、そういうところは逆に[聞き取れない][128'52]情報的には置かれているのかもしれません。またその映像に関していうと、ニューギニアの紹介の仕方なんていうのもやはりかなり日本人に近親感が沸くような形に。ふれあいであるとか、そういうテーマで番組作りもされているようですし。もう一つの方は、2つ目の方は先生おっしゃったように、それは、

[安村] その、今日紹介しておられた、いろんなものに名前を付けるんだとか、おねだりだとか、償いだとかいうことが。

[川崎] これも実はオセアニア学会で、このテーマについて以前話しあったことがありました。アフリカも実はそうだ。アフリカの研究者と話してて、でもアフリカ的おねだりといいますか、たかりと、太平洋のたかりとはまた異質なところがあるような感じがします。亡くなられた吉田集而さんもそのたかりについてはいろいろ、もう少し客観的に人類学者で集まって検討したらどうかなということをやっていました。ただそういう意味では、お答えしますと、必ずしもセピック的な現象とは言い切れない。特にでも、ただニューギニアは私の感覚ですが、すごいですね[笑]。一人総研大の院生も入ってましたけど、彼なんかかなり参ったらしくて。

[安村] それたぶん、聞きたかったのは、やっぱり西洋人が入ってきてキリスト教文化やったり、言葉自身がもうピジンイングリッシュに変わったりして、そういう、変な話ですけど、本当に失礼な言い方しちゃうかもしれないけども、本当は野生の動物なんかはエサあげちゃいけないって話あるじゃないですか。

[川崎] 滅多にエサをあげないでくださいって。

[安村] 西洋人やキリスト教。宣教師とかがそういうものを与えて、そういうものを覚えてしまう。本来はそういう文化的習慣がなかったのかもしれないということ、そういう仮説はないんですか?

[川崎] それはありますね。まずよく引き合いに出される、これは正しいかどうか私はわからないんですが、カーゴカル。カーゴ運動というのがありました。これは19世紀、後半から起こってくる運動なんですけれども、いわゆる積み荷運動という風に、千年王国運動なんかとよく比較されて出てきます。というのは、白人が今までにない富を外から持ってくる。それは白人を祖先、祖霊の復活だという風に見なして、じゃぁ自分たちはもう仕事しなくてもいいよ。山に入って張りぼての飛行機を作ったり、あるいは船を造ったりして、祖先の到来をじっと待つ。それはやがて富を持ってやってくるだろうというようなこともありました。ただ全てが全てカーゴカルトの文脈で語れるかどうかはわからないと思います。というのはもっと開発、現在進行中の開発っていうのは意図的ですし、経済開発も社会開発も含めて、きわめて直接的に関わってくる。そういう中での絡めで出てきている現象かと思います。先生おっしゃるように、そういう意味では本質的に彼らの持つ、

[安村] いや、人間そういう物欲ってのはたぶんあると思うんですけれども、それがある種調和がとれてるときはそんななくって、それが誰か持ち込んで、白人か何かが持ち込んで、そうすると何か自分のほしいものがそういう風にお願いするともらえるとか、おねだりするともらえるということができたのかどうなのかっていうのがちょっと気になった。

[川崎] 私はそういう風にはちょっと考えていないんです。考え方としては、たとえばコンペンセイションっていうのは、まぁピジンなんですけれども、現地語では現地語であるんです。それはやはり戦争をしたときであるとか、[聞き取れない][132'37]犯したときの償い、これは当然請求すべきことですし。そこでは調停のやり方もあります。だから、そういう文脈の中でピジンという言葉が入ってそれがコンペンセイションになって、そのターゲットというか、枠がより広がってきたというものだと思うんです。

[野島] はい。長浜さん。

[長浜] ちょっととんちんかんな質問を。おねだりについてもうちょっと理解したいと思って。日本人的な感覚のおねだりをとらえちゃいけないんだろうなと思いながら、やっぱり身近な風景としてとらえないとなかなか理解できないので教えてほしいんですけれども、たとえばおねだりのプロセスを経たものがシナリオ、ストーリーがついて名前が付きやすいものなんだと。日本人であれば、たとえば大人がおねだりして思い出がついて捨てられなくなるっていうようなシーンですと、たとえば旅先で気のあった人とジャケットを交換してみたりとか、それにはなんとなく思い出が染み付いてなんとなくクローゼットに捨てられないまま残っているというような。たとえば恩人が亡くなって、その方の形見をいただくというようなケースだと捨てられずに家の中にかなり残っていくというようなケースもあるんですけど、そういうものと重ねてイメージしていいものなのかどうか、その辺ちょっと教えていただければと思います。すいません、ちょっと話が。

[川崎] いえ。おねだりにしても償いにしても、特におねだりは私自身の感覚によっているところが非常に多いと思います。ある、これはまたこぼれ話的なんですが、ピジンのアスキム。いろんなものを要求する、たかるっていうのはアスクから来てるんですが、そうした行為は望ましいものではないと考えられているようです。で、面白いのは、たとえば状況によっては2人3人います。1人の人が私に対して何かを要求する。なんでもいいんですが。今から夜道帰らなきゃいけないのでおまえの、懐中電灯持ってるから乾電池を貸してくれと。乾電池をくれ。そうすると横にいる人は、そういうアスキムっていうのはよくない。これはたかりなんでしょうか。たぶん私にとってもその感覚はわかって、これは要するに僕にとってはいわれのないものだと思うんです。だからそれを僕の感覚ではおねだりじゃなくてたかってると思うんですよ。その場合は僕断ります。だっていわれがないんですもん。ということなんですね。だから。ところが私自身がおねだりとして解釈している一つの行動というか、何かパターンがあって。これは私の中で、日本でいう義理なんでしょうか。返す、あるいは何か行為するに、ある意味での正当性みたいのを自分が認めている。だから。全然いわれもなくないんだけれど、なんかねだってるような。子どもが、要するに無関係じゃない。その人との関係が。その辺の微妙さが、微妙な使い分けみたいなのは私の中にもありますし、複数人がいてあれはおかしいと非難される場合もある。でも同じことを言っていても、たとえば、それはやっぱり関係の深さ、あるいは積み重ねによるものなんでしょうか。いわゆる、そのアスキムっていうのは正当なんですね。[136'38]

[関根] たかりにあたる現地語はなんですか?[136'44]

[川崎] たかり、アスキム。あぁ、えーと。バヒネモ語で。

[関根] いや、なんか別の表現がやっぱりあるんですか?つまり、今それはよくないアスキムだって村人がいった場合はほかの言葉でも言えたのか、やっぱり言えないのか。

[川崎] 言えないです。言えないです。

[関根] アスキムの中に、村人もある種の区別をしているし、それは川崎さんも分析的な区別が、一致してるかどうかは別にして、両者に何か区別がある?

[川崎] あると思います。そうです。はい。それがずれるときあります。

[関根] それはそうですね。ずれ。いろんなコンテクストがあるし。

[野島] 金持ちは、たとえばイスラムあたりだとあるらしいけれども、たとえば金持ちっていうのは貧乏な人にやるのが当然とかそういう考え方っていうのはないんですね、まるで?

[川崎] 都市部の生活ではみられるようです。彼ら自身が都市生活者を3つのクラスに分かれるといいます。パプアニューギニアにはディスクリミネーションがないんだといいます。あくまで表現として。私の知っているパプアニューギニアの高知地帯出身ですが、事業に成功して、そして私のセピックから来た人は仕事がなかった。で、じゃぁ自分の仕事を分けてあげよう、使ってあげようという形で。ただ施しという形で意識してるかどうかはわからない。施しじゃないですね。

[國頭] 宗教的な、キリスト教的な施しっていうのも入ってるわけじゃないですよね?

[川崎] 施しは求めますけれども。

[安村] 最後に一言。

[佐藤優香] 先生、お先にどうぞ。どうぞどうぞ。

[野島] 次の一番最初にやるのが一番いいよ。

[安村] 今いっておかないと。

[野島] 関根さん、どうぞ。

[関根] いやいや。

[安村] やっぱりいわないと。

[不明] 考える間に。

[安村] いや、もうあるんですよ、実は。

[佐藤浩司] どうぞどうぞ。

[佐藤優香] 先生、どうぞ。

[野島] じゃぁ関根先生、どうぞ。

[関根] じゃぁ、考えてます。大変申し訳ないんだけど、私ちょっと寝ちゃったんですね。[139'39]途中で。ホント申し訳ないです。ビデオ見ているうちに。近視なもので見えなくてだんだんわからなくなっちゃった。それでとんちんかんなこという可能性非常に高いんですけど、ちょっとでもここに書かれているものなどをみて、ちょっとこんな風に整理していいのかどうかちょっとお聞きしたいんですけれども。先ほどの質問ともちょっと関連するんですけれども。あまりはっきりおっしゃらなかったんだけど、なんか2つの層が。2つって、それが分かれてるっていうんじゃなくて、まぁ一応2つの想定できるものの考え方とか価値のあり方が、それが混ざった話じゃないかなということですね。どういうことかというと、つまりまぁ人類学でよくいわれるような贈与。贈与の世界。贈与交換の世界の次元の話と、いわゆる資本の論理の話が、もちろん今のニューギニアの生活の中ではもう混じり合ってるに違いないんで。その混じり合ったシチュエーションの話をしてると思うんですよね。それでだけど、ちょっと分析的にはそこを敢えて分けてみると見えてくるものがあるかなっていうことで。つまりおねだりと償いという、まぁまさにタイトルが融合状態ですね。融合状態というか、もうちょっと村人の立場から、立場に少し立とうとして表現すると、まさにブリコラージュじゃないか。つまり資本の、資本主義的な世界って強烈ですから既に構成されてると思うんですよ。それに対して一種やりくりしていく、村人がやりくりしていくための戦術がここに今日描かれたんじゃないかなっていう、そういう見方。つまり2つの位相を異にする価値世界が接触しちゃって、彼らはもとの、もとのっていうかな、贈与的な価値世界のやり口。やり口っていうか、そういう言葉遣いとか、そのハビトゥス[?][142'09]というか、プラクティスっていうのかな。そういうものを実はうまく変容、ブリコラージュ的に変容させながら、こいつは日本人で金、日本人はまぁ貧乏人だって金持ちなんだからこの程度ねだったって全然オーケーというような、いろんな判断が入って、やっぱり川崎はつけとこうと。たまたま隣村の、名前わかりませんけど、アポゥとか来てもアポゥなんてつけないという判断をしていて、それはもっといろいろコンテクストがあると思うんですけど。つまりですね、ものが交換されるというときに、マルクスのいう使用価値と交換価値の交換じゃなくてね。贈与交換の方の交換。それがじゃぁ離れてるかというとね、同じエクスチェンジという言葉が前の価値のあり方と今の資本的な価値のあり方と、実は接合したところで起こっている現象をフィールドからいろいろ出されているというのが私の理解したフレームワークかなという。それでいろいろと面白いことが個別的にはあると思うんですけど。最近ソーシャルキャピタルの議論っていうのが盛んですが、やっぱりこれある意味では現地の人にとっては一種のソーシャルキャピタルの戦術、それを使った戦術的な暮らし方。だから川崎さんがたまたま来てくれた。だから川崎を使おうと。最大限使おうという、そういう一種のソーシャルネットワークを、そこに名前を付けたりしながらダイナミックに運用してるんじゃないかなっていう。というようなことがちょっと漠とした話なんですけど、こういう理解はあってるのかどうか、ちょっと。[144'31]

[川崎] はい。

[関根] 感想のような、[聞き取れない]ですけど。[144'37]

[川崎] まぁ確かにそのとおりであると思います。それから先ほどの先生からいただいたように、これはいろんな世界がごちゃごちゃになっていて、つまりピジンであるとか現地語っていうのがごちゃごちゃになってる。ある種混乱してるっておっしゃるのはまさにその点だと思います。ただしですが、

[関根] いや、私は混乱してるっていうんじゃなくて、混乱して、

[川崎] そういう中で接合され、

[関根] いや、現実が混乱してるんで。それは、まぁ私仮にいったようなパースペクティブでとらえれば別に混乱ではないと思うんですよね。

[川崎] まさに、今私が関心を持ってるのは開発現象とか介入というのもそういう世界の接合のところにかかってくることだと思うんですが、一つ非常にこれは非常にプライベートなことかもしれないんですが、関根先生が「川崎を利用したろ」とかいうことの私の思いの少しの反論は、最初私調査に行ったときに金盗まれたんです。ホテルで。で、まったく金のないままセピックにいく羽目になっちゃったんです。彼らは全て私を助けてくれまして、本当に現金収入のない人達が、まぁ現金を集めて私を街まで送り届けてくれました。そういう意味では最初の出会いが、私が何かをもって、もちろん利用価値があったのかもしれませんが、むしろ彼らにおんぶしているような形で入っていった。おんぶにだっこというか、まったく資本価値であるとか利用価値とかそういうものを私なりに持ってなかったように思うんですね。たぶんその辺の出会いみたいなもの、ちょっと陳腐な話なんですが、が、私自身の中にあって。思い的には互酬原理的な世界の中で市場経済を穴開けていくというか、そういう方向でみたいなと思いがあるんですけれども。

[関根] 私別に全て彼らが、なんていうんだろう。資本の論理に抵抗するためにとかね、それまでの価値を、そういうある一方方向に使ってるということをいいたいのではなくて、もちろんそういうまさに具象的な価値世界を彼らは持ってるからこそ起こってる現象だと思うんですけれども。いや、そこにちょっといくつも面白い表現が出てくるというのは、特に4ページ目の「ものと記憶」というところ。ちょうどここがちょっと聞いてないのが残念無念なんですけど。それでも私テープとってますから、家帰ったら聞きますけど。なんかその辺が互酬的な世界のなにがしかを大いに語っているということを思います。それで、このプロジェクトの思い出とか、逆に忘れるとか、そういう保存するとか捨てるとか、そういういろんなことがこの辺で交差しているわけで。まぁちょっとやめましょう。頭まとまらないので。だから別に一方的に考えてるのでは全然なくて。

[川崎] はい、ええ。

[関根] 面白い話がいろいろできそうだという意味で、接合してるんじゃないかということをいいたかっただけです。

[野島] テープ起こしも近く出ますし、ニュースもそのうち出るようですから。

[佐藤浩司] 今の話でちょっと。[148'44]突っ込んじゃうけど。たとえばものを手に入れるための手続きっていうのがあるでしょう。それで僕らの世界だとお金を払って手に入れるのがあるんですけど、勝手にとってくるとたぶん犯罪なんですよね。だからこれは互酬性の世界で、交換ですよね。しかし、彼らの世界で、たとえば森から何かをとってきて、それを自分のものにするって時は、ある種の操作をしてものになるわけでしょ。それは彼らが知っている儀礼的な操作で。おねだりは、彼らにとってはある種の、ものを手に入れるための手続きの一つとして認められているんだったら別に互酬と関係ないですよね。

[川崎] むしろ、もの

[佐藤浩司] 森から何かとってきて何かものにするっていうのに近いものじゃないのかなと僕は理解したいんですけど。

[川崎] 森と。つまり自然と人間の互酬、そのリスト[聞き取れない][149'55]なやりとりという風には考えないでしょう。でも、違うか、

[佐藤浩司] 森からとってきたものを何かするっていうのは別に[聞き取れない][150'03]してるわけじゃないでしょ。

[川崎] うん。

[佐藤浩司] それ人間を作るっていうのも一緒で、作ってあげるのは祭祀と呼ばれるものですけれども、それは自然との間に何か互酬関係があるとかいうそういう解釈でする話じゃないと思うから。ものを作り出すプロセスとしておねだりっていうのがたぶんあったらいいんじゃないのかな。

[川崎] それよくいいますね。ブッシュに勝手に実がなるように、乾電池のなってる木があるんじゃないか。無限にそこからとれるように思ってるんじゃないかっていうのは感じますけれども。そうなるとそれは互酬じゃない。

[佐藤浩司] ま、いいです。

[川崎] なんかさっきの関根先生の話で、互酬市場の接合と、もう一つなんかあるのかもしれません。

[関根] あのちょっといいですか、もう一つ。思い出したのは、牛島巌さんのヤク島の貨幣、石の貨幣。あれは海の中にあったりなんかして全然動かない貨幣で、そこにストーリーがどんどん蓄積されて。ところが持ち主は変わってくから、それによって誰が持って誰がもってってストーリーだけが重なって、相変わらず貨幣は海の中にあるという、そういう話が書いてあったんですけど。なんかそういう話とどこか似てるんですよね。なんか似てるところあるんですよね。あれもなんていう本だって今思い出せないけれど、巻頭論文でしたけど。編者は、

[川崎] 「象徴と社会の民族学」?

[関根] なんでしたかね。いや、牛島さんの単著じゃなくて、そういう、ここで発表されたあの人の、名前が全然出てこないんだけど。えっと、なんだっけな。ここで2回目かなにかに発表された人類学者は誰でしたっけ?

[佐藤浩司] 菅原さん?

[関根] その前。

[佐藤優香] 菅原先生。

[関根] 京都精華大学の。

[佐藤浩司] 澤田さん?

[関根] 澤田さん。澤田さんもその本の中に書いてる。ちょっと全題の本忘れましたけど。非常に一種の経済行為の、大きくいえば経済行為の本なんですよね。その交換。で、澤田さんはそのときに、彼がやってる国はなんでしたっけ?

[佐藤浩司] ピグミー。

[関根] もうあそこは大変な。ハイパーインフレーションがものすごくて、なんかリュックサック背負って野菜買いにいくっていうような話が書いてあったんですけど。ひどい話が書いてあってびっくりしたんですけど。その本の中に。どうなんですか?ああいうものの話とニューギニアの一種の経済、現在の経済もあるんでしょうけど、かつての経済とかって考えたときにやっぱり何かつながりが?

[川崎] [笑]えっと。

[関根] だから今日名前とかストーリーとかっていうこと常に入れてこられたことは、それは非常に名前を付けることによってソーシャルキャピタルとしての存在性。存在性ってものがきちっと規定されるんじゃないかと思うんですよね。そういうなにか。そういう意味で関連あるのかなと思ったんですが。いや。

[川崎] すみません。ちょっと考え始めました。今から考えます。

[関根] いや。いや、いいです。佐藤さんが今度質問されますので。

[佐藤優香] [笑]

[安村] まったくです、そのとおり。

[佐藤優香] いや、質問できるほどまとまってないんですけど。すごく償いとか、なんだっけ。おねだりでは物質的にものがほしいと思ってやりとりしてると思うんですけど、それ以外のところですごくなんか話をほしがってるというか。たとえば先生が持ってきた鉛筆の話を何遍も聞くけど、人のハビは語れないとかって。でも話はほしいわけですよね。ハビはほしいけどハビは語り直せないとか、あとフォクを奪う象徴として脳みそを食べるとか、すごい物語とか情報みたいな、目にみている形じゃないものをすごくほしがっているけれど、それとものもほしがってるということの関係性が見えない。だからうまく自分の中で整理がつかないのと。あと、ものは捨てないで戻すっていったけど、そうするとそのときに一緒に、ものと一緒にくっついてきたハビはどこに行ってしまうのかとか。ものからもらってきた、森からもらってきたものは返せるけど、森以外のところから貰ってきたものはいったい何に返すのかとか。そういうのが私の中で今ちょっと混乱しているんですが。っていう状況なんですが、その辺について何かもしあればお話をと思います。[155'07]

[川崎] さっきもちょっと話したんですけど、彼らは手に入れる元凶というか、もとというのは基本的に森という意識。森の世界だと。ですからそういう意味で私もストレンジャーとして外からやってきた。彼らにとっての世界というものは、村があって、村の外にその境界を持たないブッシュが広がっている。それは全然境界が見えなくて。私はそういうところからやってきた人間で、つまりさっきもカーゴの話、カーゴカルチャーの話しましたけれども、今彼らが我々に、一つは物質的にほしがる腕時計とか鉛筆っていうのはそういう意味では森、森の中の世界からという風にいっちゃってええのかなぁ、のものだということは言えるんじゃないかと思います。ただ単純にそれだけではない。やっぱり現金がはいり、そしてその中で実際のコンペンセイションとかいうもの、行為も現金を介したり。あるいはこのものも現金化されたりという世界の中で、ただ単純に思いがほしいから、あるいはブッシュに勝手に生えてるものを、無限ではないものを持ってきたらいいんだと。川崎は[聞き取れない][156'44]でるし、みたいな形だけでもないと思う。んー。なんなんだろうか。考えます。

[野島] はい。もうちょっとだいぶ時間も過ぎちゃったのでとりあえず川崎先生のお話はこれまでにしたいと思います。

[川崎] あ、すみません。全然お答えになってなくて。

[野島] ありがとうございました。[157'04]

[一同] [拍手]

[野島] じゃぁ4時からにしますか。4時5分?15分間お休みにしますか。じゃぁ15分間お休みにして4時5分から始めます。[157'13][雑談][162'35]




次世代インターネットが誘う個人と社会

[野島] じゃぁ大体感じとしてはお話は1時間ぐらいを目処にして、残り1時間がディスカッション。だからまぁ若干オーバーしても構いませんので。[0'16][雑談・準備][1'43]じゃぁいいですか?じゃぁ、始めましょう。
もう一人の、川崎さんに並んでもう一人のご発表者としてお願いしたのは神田敏晶さんという、肩書きがなんていったらいいのかよくわからないんですけれども、私今回我々の研究会の話の展開としては一つは文化人類学の方、もう一つは今のユビキタス社会、インターネット社会の中でちょっとかけ離れた、標準からはだいぶ離れた人っていうのを呼ぼうということでそういう方を探したときに私は神田さんのことをパッと思いついて。ネットワークの世界では非常に有名な方で、いろんな意味で目立って。たとえば、いろんな2チャンネルみたいなところだと、毀誉褒貶も激しかったりするんですが、いろいろと面白いことをされている方です。最近の話はきっとお話の中で出てくると思いますが、去年話題になったのだと、例のセグウェイですね。セグウェイを公道で乗り回すという不埒なことをして、警察に捕まって留置所に入れられたってこともありますし、あとずいぶん昔からビデオジャーナリストということでデジタル機器をもたれて、何かことがあるとそこの場にいっては情報を、インターネット上で情報発信するみたいなことをされてる方ですよね。で、最近ではイラクにも行かれたりとかってことも含めて、今のインターネット社会の中で非常に変わった、変わったといえば変わった。だから先ほどもちょっとお話ししてたんですが、もしかしたらこういう方が今後の主流になっていくのかもしれないし、あだ花として消えていくのかもしれないって、そこはよくわからないんですが、その辺の幅を含めてお話をいただければと思います。変な紹介ですみません。

[神田] いえいえ。[3'59]あだ花の底辺というか、KandanewsNetworkの神田と申します。まぁキャッチフレーズとしては世界で一番小さなデジタル放送局という形で、1995年から100%インターネットの放送局という形で。当時はまだストリーミングサーバーとか、そういうものなーんにもなくて、僕自身はテクノロジー系の出身でもなんでもなくて、たまたま家の前が阪神大震災が起きた現場になってしまって、たまたま僕がそれまでにマルチメディア時代を表号して、ビデオジャーナリストと名乗りましてCD-ROMのコンテンツを作っていました。基本的にはパソコンを使ってみていただくための映像コンテンツっていうのを制作をしてきて、たまたまその震災で変わりつつある自分の家の前を撮影したところ、それをいろんなところでその情報コンテンツをほしいというところで、当時は大学研究で使ってたインターネットのところで、僕自身はBBSを、草の根BBSのサーバーがあって、たまたまそこから経由をしてどういういきさつでインターネットに流れたかは知らないんですが、最終的には自分のメールアドレスのところに何かドイツ語で「何かしてほしいことがあったらいってくれ」みたいなメールが来てるんですが、僕はドイツ語は読めなくて、スイスの赤十字の人達になんて返事したらいいか困ってた状態で、そのときにすごくインターネットというものがすごい感じで伝わるなという風に感じました。
ただ一つ問題だなと思ったのは、今ここでスイスの人達に何かしてくれっていうよりも、今ここですぐなにかできた方が実は本当は一番役に立つんじゃないかということで、僕はあまり震災の時にはインターネット役に立たないと言い続けてたんですが、震災でインターネットが役に立った神田さんという風に新聞とかメディアでは紹介されているところに非常に何かすごく悶々とした、メディアの発信する側と受ける側のところに大きな違和感をずっと感じてきて、僕はその一つの解決するソリューションの一つとしてのインターネットというのがあるかなというところを1995年に感じ始めて、約それから10年ですね。なんかいろいろありましたが。そこでちょっとそのことについて今日はお話しさせていただければと思いますが。えーと、クリップが。ちょっと待ってください。[間][7'09]はい。

「見えてきた!次世代インターネットが誘う個人と社会のあり方!」という形で、とりあえずちょっとたくさん作ってきちゃったので1時間の間でとりあえずは早めにご紹介していきながらと思いますが。これはなんですか。あ。あれだ。これで。こっちの画面は変わってるんですけど、こっちが。ちょっと待ってください。[間][7'58]?、きましたね。じゃぁこちらの方で。
まず、皆さん、アカデミックな方々で、前にちょっと僕の中で自分で調べてきて、インターネットっていうのちょっと歴史的に考えてみたいなと思って、コミュニケーションの歴史をもう一度復習したのが、このみんぱくの場にふさわしいかと思います。

地球が誕生してから45億年。最初の人類アウストラピテクスが誕生して500万年経由している。そこで考えていただくと、コンピュータが誕生してからは約半世紀。まぁエニアックといわれてるんですが、そこから50年。商業インターネットが登場してからわずか10年。たったこの10年なんですね。しかしこの10年間は今までの数千年にも及ぶ人類のコミュニケーションの歴史の英知を凌駕した10年ではないでしょうかと。
で、次。あれ、次がいかない。[間]ちょっと待ってくださいね。あぁいった。[間][9'39]はい、いきました。
伝達スピードが、これいろいろ文献を調べてみると便利ですね、インターネットで。4500年前、最大のピラミッドを造ったエジプトのクフ王の指示が末端の鳥居?に到達するのに30分も時間がかかったそうですね。大体15000人程度動かすのに30分、1つの命令を伝達するのにかかりました。で、2000年前ローマ軍のシーザーの伝令は舗装道路と馬車があったおかげで1日300キロのスピードで伝令を送ることができて世界を支配できました。で、400年前江戸時代の飛脚は江戸と大阪を約6日間。大体1日100キロのスピードで結んできました。で、西暦2000年、情報の伝達コストは臨界点。しかも誰もが利用できる時代になってきてますというとこですね。ここまでは。

インターネットの情報量。これは今インターネットの情報量、指数関数的に増加してます。もはや検索エンジンなしではどなたも航海することができなくなってきてます。googleのクローガーによると、インデックス更新だけに2週間必要としています。で、全てのコンテンツを網羅するのに現在で3ヶ月。で、これがもうすぐ半年から1年かかるそうですね。ですから全て今インターネットのコンテンツで何が起きてるのかって網羅することはほぼ不可能ということですね。
で、ハードディスクの大容量化と低価格化が進み、情報量が増加して、無料ディスクスペースも更に増加する。今僕が作っている無料プロバイダーいくつかありますが、ライブドアのギガメーラーであるとかはいつの間にか勝手に2ギガになってます。こないだ1ギガで、ギガですごいなぁというと、googleのギガメールというか、Gメールは1ギガになると。もうそれに負けずとうちは2ギガですよ。そのうちどこかが今度はうちは5ギガですよとか、それはあと数年間でうちは1テラバイトですよとかっていうサービスが無料で起きるような時代になってると思うんですね。

トラは死して皮を残しますが、人類は、これ思うんですが、今書いてるウェブサイト、皆さん、孫子の代まで残っていくと。で、自分のプロバイダー契約しているものよりも無料プロバイダーに書き連ねたもの、落書きしたものが、子孫、子々孫々までずっと残るという傾向が見えてくると思うんですね。

で、一つコミュニケーションの法則という形で、データストレージが12ヶ月で2倍にっていうのが、これはストレージの法則っていうのがあります。
で、インフラネットワークは9ヶ月で2倍にということで、これは光ファイバーの法則があります。
で、コミュニケーションパワーは6ヶ月で2倍にというのがジョージ・ギルダーの法則がよくいわれてます。[12'30]
ネットワークの価値を今度端末数の二乗ということでメトカーフの法則というのがありますね。
一番最後は、コミュニティコンテンツは2のn乗。nは参加者で増加し、コミュニティの法則という形で、もとこれはパラアルト研究所、ゼロックス研究所なんですが、ジョン・シーリー・ブラウン名誉所長がおっしゃってます。

[安村] すみません、途中で質問していいですか?[12'54]

[神田] はい。

[安村] コミュニケーションパワーってこれは何を?コミュニケーションの量?

[神田] えっとー。どれですか?

[安村] 3番目。

[神田] 3番目。コミュニケーションパワーはギルダーの法則。これはたぶんジョージ・ギルダーのヤツで、まぁコミュニケーションパワーっていうか、情報量だと思います。

[安村] 量になるんですか。

[神田] はい。

[安村] それから次の価値って呼んでるんですよね、ネットワークの。

[神田] ネットワークの価値は、これはインフラの価値だと思います。イーサネットとかのその辺の研究者の人達なので。

[安村] ふーん。なるほど。

[神田] まぁここはそういう法則があるということで。調べていただければわかると思います。で、これが一つですね。もはや情報発信の時代ではないんじゃないかなと。これは僕が今までこれからは個人の情報発信の時代だという形で、約10年間言い続けてきてますが、もう既に今日のこの、ここの発表の依頼っていうのが電子メールできてるんですが、僕は通算何回送っていただいたかわからないぐらいに、ディスコミュニケーションな、結局連絡がついたのが電話だったんですね。といいますのが、今電子メール7割がスパムっていわれてますが、僕の場合9.8割はスパムなんですね。で、もう既に電子メールをやめました。もう使ってられないです。もうほとんど、午前中はほとんどメールのゴミ捨て作業に追われて、その中にいくつか届いている本当に、まぁときどき何かあるような、仕事を発見するために見つける。もうそれくらいなら新しい仕事は捨てた方がいいと。もう大事なことは電話してくれと。
で、意外とこの自分の携帯電話とか、すごいパーソナル情報を出しているんですが、意外と電話かかってこないんですね。逆に言うと、メッセンジャーとかの方が大変で、メッセンジャーも公開するのやめました。なんかそういったところで、もはや。まぁそういいながら電子メールでメールマガジンみたいなものは未だに、毎日2万人ぐらいに巻き散らかしてはいるんですが。実際それ2万人読者いるっていったとしても、2万人読者いるとは思えないですね。当然。200人ぐらいが精読してくれてるかなというレベルにだんだん変わってきて、もやはもう電子メールっていうのは破綻してきているんじゃないかと。

で、HPブームとの違いが、このブログ人気っていうのはやっぱり個人HPのしきいが実は高かったっていう形であらわれている。これからは誰もがHPを持つことができる。個人HPの時代だという形で、まぁ約10年ほど前自分も旗を振って牽引してきた人間が早々と逆のこといっちゃってもあれだと思うんですが、やっぱりHP、HTMLのHPのしきいは高かったんだと思います。
ちょうど肥大化するブログ人口ということで米国は今840万人ぐらいの、全員に調査しているわけじゃないんですが、840万人ぐらいがブログ人口と。で、その何倍ですかね。3000何万人ぐらいが、3600万人ぐらいがブログの読者人口。ですから大体基本的に4人に1人はブログを発行して、その4倍が読んでる人達みたいなところになっているという調査が出てきました。
その中で何が起きてるのかというと、露出される個人の生態系?。
最近よく社長日記とかありますよね。社長日記、社長ブログとかあるんですが、ほとんど昼飯に何食ったとか晩飯に何食った。それが社長の日記か、みたいな。まぁ本当にそういう、実際大事な某企業の役員と打合せとか、その内容が書けないもんだから、もう何食ったとかそういうことしかない。ただそれによって何があるのかなぁと思うと、まぁ社長の食いもんは結構質素だったりとか、昼間はこんなのでも夜は会食でおいしいもの食べてるとか。そういうのが非常に増えてきて、何かすごく個人の生態系?が露出されてきて、24時間の使い方とか、実際社長は何時に起きて何時に寝てどんなことをしているのか。まぁ本当にそれが全て完全にカミングアウトして書いてるかというと、まぁ社員の顔、株主の顔いろんなことがあるので、まぁ基本的にパブリックに向けた情報が書かれてるというところからスタートしてきています。

実際個人の生態系?として、やっぱり面白いのは、個人の人達が赤裸々に語り始めて、それが直接の自分とリンクがとられていない情報であればあるほど面白い傾向が出てきてますね。要するにプライバシーまで侵害されて、発表していない情報。だけれども個人がどこかで生きているっていう証。これはたぶん民族学を研究する人達があと50年後、100年後にインターネットのブログを、2000年代のブログを読むと「あぁ、かつての人達はこういう風な」って。たとえば500年前の人達がこれブログつけててくれたら民族学の中では非常に面白いことがあったんじゃないかなと。もしかするとムー大陸とかそういうところではこういうことが行われていたのかもしれないというのがあるんですが。
で、そこから、もう皆さんが露出する、個人の生態系?をやることによってあれは情報発信してるのかなぁ。インターネットでこれが世界に情報発信が無料でできる時代ですよという形。でも昼飯食ってることが、これ世界に向けて情報発信したいとまでは思ってないわけですね。ただ大事なのは、限られた数人の人達にインフォメーションを送ることによって「あぁ、僕もあそこの天ぷら屋は行ってみたいな」と。逆に言うと、鹿児島で大火事が起きたりとか、少年事件が起きているニュースよりも、神保町の天ぷら屋のあそこのなんとか屋の昼の定食はうまいっていったほうが、少年事件で何か殺伐とした世の中のニュースを見るよりも非常に重要な情報であったりはするという意味では、かなりこれ情報の中での信頼性は高いものじゃないかなという風に感じたりとかしてきてます。[19'12]

で、一番すごいのは、公開することによって得られる情報。これはそうなんですけど、僕も1993年ぐらいからずっとメーリングリストで、自分のメールマガジンみたいなもの出し続けてきてるんですが、まぁ毎日毎日自分の脳みそをさらけ出してるっていうのが非常にテンションが高くて、最初は自分を自分以上に見せようとして努力をするんですが、はかない努力なんですね。もうほとんどそんなことやってて、しかもそこで収益が得られるのであればできるんでしょうけれども、収益を自分で生み出せずに、自分のお小遣いでやってるというメディアになってくると、ほとんどもう自分の趣味というか、自分のありのままの姿が一番楽ちんなんですね。逆にそのありのままの姿の方がすごく伝わって、そこから更に間違ってる点を教えてくれるというシンパな人達が出てきて。最初はそのシンパな人達は自分の身内だったんですが、今やもう自分の身内じゃない人の方が、僕の友達より僕のことをよく知ってる。僕がブログに書いたりとか、ソーシャルネットワークにあげたことっていうのは、もうすぐその瞬間から伝わってきていて、なんというかすごく自分の今の状態を知ってもらうということには非常に適したメディアが出てきてるのかなぁと思う。逆にその分情報操作もしやすいというところも出てきています。情報発信というには、そんな情報を発信するほどのことでもないんですけれども、そういう情報が非常に、まぁ興味のある人にとっては役に立つっていうところにあると思うんです。

で、これ知らない知人と知っている他人っていうの、ちょっとこれだけみるとよく意味がわかりにくいかと思うんですが、まずブログっていうのが、あ、ごめんなさい。知らない知人っていうのは、ソーシャルネットワーキングサービスっていわれるの、皆さんご存知ですか?SNSとか。日本だとミクシィとか、グリーとか衣笠とかっていうサービスがあるんですが、最近ずっと僕はこれだけのメディアでこの1年間生きてきたという感じなんですけれども。意外と、友達なんだけれども、実はその友達のバックボーンのこと何も知らなかったりとか、そういったことが可視化されることによって、知人が実はこういう音楽の趣味を持っていたりとか、もしかすると知人はこういう本が大好きだったりとか、知人の男性のタイプ、知人の女性のタイプみたいなものが逆にソーシャルネットワーキングによって初めて知るようなことができる。それって結構知人とか友達とか思ってたんだけど、実は意外に知ってないんじゃないかなっていうのがあります。
逆にブログというのは、よく知っている他人なんですね。他人なんだけれども、自分と感性が非常によく似ているし、興味も非常に似通っているし。たとえば僕はオークションでものを売ったことがある人のところになにかの理由で届けに行ったんですね。届けに行ってその人の家に行ったときに、その人の戸棚を見たときにびっくりしたのが、僕の趣味とまるっきり一緒なんですね。[22'13]聴いているレコードから本から、いろんな趣味が一緒で。なんで今まで知り合わなかったんだろうという、生息している地帯が違うんですね。でも、オークションの一つの関わりのある物品を通じて、そこで一気にブレイクして。なぜブレイクするかというと、これがヤマト運輸とかメール便でものを送っているだけではブレイクしなかったところが、一気にそこでface to faceで会ったことによって一気にもう大親友になりました。

これからのインターネット社会ですごく必要なのは、やはり、まぁこれはあとでお話ししますが、インターネット紀元前の世代の人には会うということが一番重要なんじゃないかな。会わないと基本的に信用できないっていうのが、これはずっと我々の持っている、ずっと何か持っているメタファなんじゃないかな。なぜか会うと信用できるっていうのが、別にこれ動物的な観点でしかないんですが、会った時点でこんな人だっていう外的な要素がわかっただけで、非常に信頼感がグッとあがる。なぜだろうって。会った時点で知人になるんですね。知らなかった人までが。ブログですごく自分と感性も似てるし、関心領域もすごく似てる人なんだけれども、会ってないまでは他人なんですね。僕は最近ブログとSNSの違いはそこのところで、会ったことがあるかないかっていうところが非常に大きい、友達であるか友達でないかというところの差が非常に大きいという風に感じるようになってきました。

で、これからは必要な情報だけを受信する時代。というよりも、必要な情報だけを受信したい時代です。もうとにかく情報を今までは求めてたんですが、もう情報こりごりです。もういらないです。もう毎週毎週週刊誌が70点も出されて、映画がインドでは何十本も今月作られて、もう破綻してますよね。絶対無理ですよね。一生かかっても本を読むことができない分量が出てきてるので、選んでもらいたいぐらいです。

そこでタイムシフト化する、もしくはプレイスシフト化するメディアというところでちょっと考えてみたいと思うんですが、同じ時間に同じ番組を大量に放送し、そして大量に消費を誘う広告スポンサーで成り立っている現在のメディアっていうのはどうなんだろうか。これも近いうちにブロードキャスト型っていうのは終焉で、今なぜテレビを見てるのかっていうのは、これたぶんただだからなんですよね。
笑っていいとも、これ1回みるのに100円だったとしますと、皆さん笑っていいともは見られますか?12時になると笑っていいとも見ますか?って。ここから、あなたの口座から100円引き落とされます、みたいなところで、絶対見ないですよね。まぁ100円で見てもいいと思うんですけど、100円だったらいいと思うんですけれども、でも来月の自分のVISAの請求書の中から笑っていいともがちゃんと100円だけ、3回笑っていいとも見たから300円だけ確実に引き落とされてるかっていう、今度はチェックするためのこちらの方のコストが実は高いんですね。笑っていいともが5円でも見ないと思うんですよね。来月それ3回で15円引き落とされてるかどうかをチェックするためのコストの方が高いので、これ一つのマイクロペイメントが成立しない理由としては、要するにチェックする管理コストの方が高いんですね、実は。
皆さん今日ここまで来るところの交通費いくらだったか、10円単位で覚えてらっしゃる方いますか?意外とないんですよね。ものを購買するときはすごくこれが350円なのか250円、特にネットでものを買う時って250円なのか2800円なのかとかすごくシビアになるんですが、ポケットにあるお金ってもう無頓着なんですね。特に交通費となったらもうほとんど覚えちゃいないみたいな。
会社で動くんだったらそうなんですが、そこのところでかなりネットに対しての信頼度っていうのがまだまだ低いっていうところがありますね。これから好きな時間にいい番組だけを、自分に必要な番組だけを選びたいっていうのがどんどん増えてきてます。で、そこで考えられるのがナロウキャスト型の放送の開始っていう形で一つ考えられますね。実際これ皆さん今年のオリンピックでかなり増えてきたと思うんですが、ハードディスクレコーダー。まぁパーソナルビデオレコーダーというPVRなんですが、これの市場は非常に一気にデジタル家電として今年、昨年ですね、開花しました。次が、これパッケージ型からネットワーク型へ移行してくるというのが傾向として見えてきていますね。ここからちょっと不自由になったメディアというところで話をしてみたいんですが。今皆さんどうですか?ハードディスクレコーダー、DVDレコーダーといわれているものどれくらいお持ちですか?持っておられる方?1台以上持っている方挙手してもらっていいですか?

[不明] 持ってないんだな。

[神田] はい。あ、意外と少ないですね。はい。ハードディスクレコーダー。僕かなりヘヴィーユーザーでもうかれこれ5台所有して、全チャンネル全番組をとった暁には、まぁ僕はやっぱり5年後にどういう人間になるかってっていうのを先に、一歩先に知りたいのでどうしても。最初アメリカでティーボっていうのが発売されて、リプレイTVっていうのが発売されてすぐに買い勇んで、アメリカで使って、日本で放送して使えないんですけれども、でもそれはそれで別にハードディスクレコーダーとしてNTSCだったので使えたので、それやってきたんですけど、結果として、いつでも見れると思うといつでも見ない。永久に見ない。もうずっとあると思えば見るんですが、これがいったんでもパッケージメディアに録画したりとか、ネットワーク上に永久に保存できる状態になると絶対見ないですね。そうなってくると海の藻くずとして消えてくような番組を優先にしちゃうんですね。要するにライブ放送であったり生放送であったり。

逆にテレビの、皆さんもそうなんですが、テレビの占有率って考えると、モニターっていうのは、今のディスプレイで多チャンネルといいながらテレビのモニターに映っているチャンネル1つなわけですよね。たぶん一時昔全チャンネルが見れますっていっても、見ることはできても全チャンネルの音を聞き分けることができないので、インデックスでそのメニュー画面が出てきてスカパーの全メニューが見れたとしても、それだけをずっと見てる人って少ないので。
僕は一時テレビチャンネル全チャンネルを見られるようにテレビを並べました。[28'48]で、音も鳴らすんですが、3チャンネルぐらいまではなんとか聞き分けることができます。それ以上先はもうノイズなんですね。でも意外とインストレーションとしては、2・4・6・8・12の曲が流れて、FMラジオが3局ぐらいなって、AMラジオが3~4局鳴っている情報洪水の中に身を置いてみると、意外と落ち着くんですね。もう言葉として認識できない。音楽としても認識できないけれども、実は電波っていうのは我々の目の前にそんな感じで飛んでるんだろうけれども、これ可視化できないから、もう普通に自然を眺めてたりとかするんですが、あれ電波が見えるめがねで見てみたらもう大変なそういう状態になってるとは思うんですが、その能力を人間持ち合わせてなくてよかったなと。
たぶんやっぱりメディアのところでもずっとやっぱり同時でチャンネルを全番組を見て全番組を録画して、どのチャンネルも全部見たときに、次にほしいなと思ったのは、誰かが見てくれていて面白い番組だけの情報を送ってくれないかなぁと。本編の素材はもう自分のハードディスクレコーダーに入っているので、信号だけでいいわけですよね。先週の日曜日のサンデーモーニングのこの時間のこの部分が一番視聴率高かったので、その一番視聴率高いところだけの、たとえばEPGといわれているエレクトロニック・プログラミング・ガイドだけを送ってくれれば充分。それは、月額2000円払ってもいいと思います。要するに、視聴率の高い番組だけがこう。もしかすると瞬間視聴率がリアルタイムで出るのであれば、その視聴率に任せてオートマチックチャンネルというのがあれば、僕はそれで一番人々が見ている、コモンセンス的に見ているテレビ番組をモニタするのが、一番日本人が情報を今どういうことを知っているのかというのが得られれば一番いいのかなと思ったりはします。

テレビっていうのはやっぱりそのライブでずっと流れてきているんですが、これ面白いんですが、先週ニューヨークタイムズで発表になってたんですが、全米5位のテレビはウォルマートTVなんですね。これ何かというと、ウォルマートが全米で1200店舗あるんですが、そこのウォルマートの中で流しているテレビなんです。ほとんどインフォマーシャルといわれるインフォメーションとコマーシャルの一緒になった番組。で、ウォルマートの中でメディアの調査をしたとき、約7割の人がブランドスイッチするときにその現場で判断してるんですね。チラシで見たりとかいろいろしてるんですが、7割の人がその現場で判断している。で、現場で今までなんだっていったら、ポップであったりとか新聞のチラシとかクーポンっていうのがあったんですが、今やその43インチのプラズマディスプレイが店内いろんなところでずっと24時間ウォルマートTVが商品情報を流している。番組ないんですね。もうずっとインフォマーシャルです。ずっとこの洗剤売り場ではこの洗剤がどうのこうのやったりとか、食肉売り場では今度のこのミートはどうだこうだとか、ずっとそういうことをやってて。実際に広告代金も非常に高い値段を付けて、やっぱり4大ネットワークをさしおいて全米5位の視聴時間が約7分間一人の人がウォルマートTVを見てるそうですね。もう既にこれはテレビじゃなしにセールスプロモーションメディアなんですが、テレビの域に達してしまっている。ネットワークなんですけどウォルマートの中でしか見れない。でもこれもしかするとウォルマートTVがケーブルテレビ放送に乗っかってきたときに家庭でも見出すかもわからない。そうすると更にそのテレビっていうインフォマーシャル情報というのは増えてくる。広告主にとってはいろんな作りたくもない番組制作費と電波料を払いながら、お金を払うことを考えれば、ウォルマートTVで直接に、このテレビを流したときにこの商品がこの店舗でこれだけ売れた。じゃぁこの商品でこのコメントのコマーシャルを乗っけたときにはこの店舗ではこれだけできたっていうマーケティングリサーチが一緒にくっついたときの番組を作り始めたときにテレビメディアっていうのはどうなるんだろうというのがあります。

あとディスニーが、FCCが2年ぐらい前に認めたんですが、ムービービームっていうセットトップボックスにコンテンツを提供し始めました。これ何かというと、サムソン製のセットトップボックスなんですけれども、そこのところに、今ネットに直接つなげるのかなぁ。えーと、セットトップボックスの中にディズニーが持っている映画100本のデータをハードディスクの中にもう先に入れちゃってるんですね。契約期間中は何本でも見ることができる。要するにレンタルビデオ屋がうちの中にもうきているわけですね。いつでもどこでもディズニーチャンネルっていうのが、別にケーブルテレビに契約しないでも、もうハードディスクの中に100本分入っていてどれでも見放題ですよっていう形ですね。基本的にそこのところで、ムービービームっていうところでビジネスとして出てきてるんですが、あまり芳しくないサービスらしいですね。
これは先ほど、もう当然そうなんですが、いつでも見れるっていうと見ないんですね。いつでも見れちゃうから。逆に1週間しかこの番組を見れませんよって切り替えたとたんに、シュレック2は今週だけですよとか、にやると非常にみんなこぞって、見れない人はDVDに落としたりとか、パッケージメディアに落としたがって。要するにパッケージメディアに落とすっていうのは、今は時間はないけれどもいつかは見たいと。でもそのパッケージメディアまた永久に見られないっていう繰り返しを歩むことになるんですが。こういうのがありますね。[間]今度戻れなくなっちゃった。[34'56]

で、今のがムービービームなんですが、いつでもどこでも誰にでもっていうのが、anytime, anywhere, anyoneというのがブロードバンド時代のキーワードのようにいわれているんですが、僕はこれもうだんだん価値がなくなってきていて。いつでもどこでも誰にでもっていうのが、これは見なくていいっていう3大名詞で、3大コンテンツなんですね。今だけですよと。ここだけでしか見れませんよと。あなたにだけですよ。っていわれればお金払ってでも見たくなるっていうところにどんどんこれから、パブリックになってないような情報の方が絶対面白いと思うんですね。

あとはテレビを見ながら人はクリックしたくないっていうのがあります。よくこれオンデマンドTVとかインタラクティヴTVの時に、テレビを見ながら、今このドラマでトム・クルーズが着ていたこのシャツが買えますよって。誰がドラマの途中で買い物するんですか。もう本当にこれから盛り上がって来る瞬間に、「あ、あのネクタイいいな」と思って「はい、こちらはショッピングチャンネルです。今トム・クルーズがしていたネクタイ、これがいくらいくらで」って。買わないですよね。むしろそれだったらもうバッファに残しておいて番組を見終わったあとにコミュニティで楽しみながら、実はあのときのネクタイ知ってる?みたいな、もっとうんちく情報と一緒に関わって、あのネクタイを今限定で50名様に、あなた今ここで番組の感想を送ってくださった方だけにお届けしましょうであったら買う価値は出てくると思うんですが。いつでもどこでも誰でもっていうのは見ないし、テレビを見ながら人はクリックしない。

これは一つは非常にテレビというメディアが非常にパッシブなメディアなんですね。ですからそこの違いが結構テレビ局に長い人であればあるほど、テレビの未来的なデジタルTVでこれからはインタラクティヴで、視聴者のアンケートがこれだけでっていって。今のテレビも時々電話を掛けてアンケートとかやってますけれども、面倒くさいだけです。もうそれでどうのこうのっていうのは。むしろそれはインターネットと融合している側のメディアであれば。インターネットは逆なんですけれども。
あとは視聴率という名の天使。これテレビ業界ではもう天使様々なんですね。もう視聴率という風なところで、神様ですよね。
僕は学生時代にビデオリサーチ社っていうところでアルバイトをしてたんですが、まぁ今も一緒かどうかわからないですが、統計学上は優位抽出法という形で、4人おきに電話番号見ていってそこからテレビモニタの人達を抽出するんです。僕たちの働いている時間は9時から5時までです。で、9時から5時までに電話帳をもとに、上から4人ずつを選んでいきます。ところが男性の30代40代はなかなか捕まらないんですね。で、電話帳を見てずっとやるんですが、そこのサンプルだけ集まりにくい。電話に出てきた人ってたまたま家にいる人なんですけれども、「職業は?」ってもうほとんど無職なんですね。はい。ほとんど無職の方々が家にいられて、大体この調査に協力してくれる方って、わりと保守的でコンサバティブで、わりといい人なんですね。その人達が視聴率を支えて頂いている。やっぱりあがってくるのは水戸黄門とか、よく見てらっしゃるんですね。NHK大河ドラマとか、見てらっしゃる。本当にその視聴率でものが売れていて、番組が制作ができてるのか。

たとえばこれは僕が編集会議っていうところの、別のところの講義でよくいってるんですが、雑誌のアンケートをするのに、大体編集会議って皆さんどういう風にやってるかっていうと、読者アンケートはがきをもとに、それをコンピュータの3Dグラフ化して統計とったものが編集会議ですぐ出てくるんですが、もうあれの会議をすればするほど無駄なんですね。もう本当に。大体母数をいくらかで見てみると、n数が極端に少ないんです。売れてる雑誌なのに、100行くか行かないか。それによって連載を打ち切られる執筆陣とかいるわけですよね。可哀想ですよ。実際買ってはいるかもしれないけれども、いつも送ってくれる常連さんのアンケートはがきとか、もう本当にその100人程度のアンケートはがきが何万部を作っている雑誌メディアの中を代表して。これ視聴率の方がまだ厳密な調査をしていますが、読者アンケートはがきなんて、こんなものでエクセルの図版がバーッと出てきて分析して、マーケティングリサーチによるとみたいな形で。これは全然価値も何もない、単なる道ばたで100人に聞きましたのインタビューと大して変わらないようなところで変わってきてるっていうのが非常に、それで雑誌が売れない。そりゃ売れませんよね。もっと編集長がとらえている感覚の方が大事なんじゃないかなぁと思ったりはします。[39'54]

で、一つは、これはアメリカなんかでいわれてますが、低所得者階級メディアとして広告と購買率との調査っていうのがもっとなされないと。実際にテレビっていうのが、僕はカリフォルニアにいたときなんですが、ほとんどヒスパニック系のコマーシャルが一番視聴率高かったりとか、ヒスパニックチャンネルの方が実際テレビでコマーシャル流すと一番ビビッドに購買率に結びつく。要するにヒスパニック系の人がたくさんカリフォルニアなんかでも見ていて、で、基本的に外出率が高くなったり、友達の家でパーティをやっていたりとか、テレビが一番安上がりな娯楽になっているというところで、テレビっていうメディアがもっと大学卒の高給取りに対して訴求するメディアの番組を作りたいと。でもそうすると逆に視聴率がとれないというところのジレンマに陥ったりとかしてます。だからそういったところの違いというのは出てきますね。

あとはリモコンが実はソリューションツールというのが知られていなくて。リモコンを高度化しようとする風にメーカーさんはいろいろ考えるんですが、実際これはリモコンに多機能化を誰も望んでないんですね。リモコンはチャンネルと、もうボリュームだけでいいよと。もうそれだけでいいです。ほかの機能いらないです、実は。なのにDVDレコーダーのリモコンはもう高度化されてきて、どこを押してどうなるんだっていうところは本当に非常にリモコンの求められているニーズっていうのは、もしかするとリモコンにペンとメモつけといてくれみたいな。そちらの方がよっぽど助かるかなみたいな感じがあるんですが、リモコンに関してはその辺のところのソリューションツールとしての思われ方が全然。メーカーもわかっていないっていうところがありますね。

で、プルメディアプッシュメディアの違いというところで、まぁテレビメディアというのが非常にプルメディアというよりもプッシュメディアで、要するにパッシヴというか、向こうからプッシュしてくる情報ばっかりで、自分から別にプルしていきたい情報でもなんでもなくて。逆にインターネットの場合はプルメディアであって、たぶんインターネットでDVDが見れますっていって、毎日インターネットでDVDを見ているときに、キーボードとマウス触りながら、原稿書きながらDVD見る人って非常に少ないんですね。インターネットでDVDを、まぁインターネットでは。パソコンでDVDを見ているときはほとんどテレビとして見ている。新幹線に乗ってて、テレビを持ち込めない場所でDVDを見るための一つのブラウザとして、モニタとしてDVDを使ってるんですが、そのDVDを見ながらキーボードとかマウスは触りたくないですね。逆に言うとインターネットをしていたりとか、ブラウズをしているときに、キーボードとマウス使っちゃダメですよっていわれるとすごい辛いんですね。インターネットの番組がなかなか普及しないところとしては、一つはキーボードとかマウスっていうのをもっと積極的にアグレッシヴに使いたいんじゃないかなと。
大体見ていると体がやっぱり90度に対して、パソコンとかPCを触っているときは15度前に傾斜してますね。こちらの方に。前に前傾してますね。で、テレビとかDVD見るときは前傾してないんですね、もうほとんど。後ろに行ってる。時々エロサイト見てるとき前傾している人達はいるかと思うんですが。まぁ基本的にパッシヴなメディアを見てるときは後に下がって見ているっていうのがありますね。

これちょっと順序逆ですが、リラックスメディアアテンションメディアっていう形でもとらまえることができると思うんですが。テレビっていうのは基本的にリラックスしていたい。リラックスしているときのもの。映画もそうですね。で、アテンションメディアっていうと、たとえば新聞なんかは壁に貼ってずっと眺めていたいという見方をする人はいなくて、どんどんページをめくっていって、どんどんどんどんアグレッシヴに新聞を読みたい。インターネットもどんどんどんどん自分でクリックしていって、クリックしている間に、最初から調べてるものとは全然違うものを調べ始めたりとか。あれ?俺何しにこのネットきたんだっけって忘れるぐらいネットの中でいらぬ方向に飛んでしまうぐらい興味が拡散化される傾向がありますが、その辺のところが違いますね。
よくやっぱりテレビを見るときにペンとメモを用意するかっていうのが、この辺がまずリラックスメディアかどうかっていう大きな違いで。まぁ実際にテレビを見ていてメモするところがあったとしても、リビングルームにそのメモできる状況があるのが非常に珍しくて。僕自身も実際テレビを資料としてみるときに見るタイプのテレビは机の上に置いてる小さいテレビなんですね。で、情報としてはハードディスク上で、もうほとんどリモコンでテレビを見ていて、気になってる情報はいったんハードディスクに落としたヤツを定期的にDVDに焼いて。それで書き物を起こすときはDVDに焼いたヤツを今度テレビの方のDVDプレーヤーにかけて、それを見ながら原稿を書くみたいな形で、やっぱり場所というのは使い分けをし始めるようになってきました。

あとネットワーク化され個人化される大手メディアとして、ラストドットFMというのがあるんですが、これも今ちょっと立ち上げてみます。ネットワークがきてるといいんですが、何かというとFM放送がインターネット版で放送されてるんですが、自分の好きな曲をカスタマイズできる。好きな曲っていうか、好きな曲のタイプをカスタマイズしていくことができるんですね。これがそうなんですが、これでラストドットFMっていうのがあって、ここのところでアクセスしていくんですけれども。まぁ今かかっている曲が気に入ればラブボタン。気に入らなかったらスキップボタン。こんな曲一生聞きたくないよと思うとバンボタンでゴミ箱いきにやると、もうこの聴きたくない曲は一生もうかからなくてすむわけですね。
たとえばカスタマイズ放送は、ここに自分の放送局を登録することができる。要するに僕は自分のKNNKANNDAっていうところで、今アクセスしてるのは僕がログインをしているラストドットFMのユーザーKNNKANDAっていう、これが僕の放送局で。僕は普段これを。ちょっとなんか変なお兄さんいるんですけれども、ここでプロファイルレディオをクリックすると、ちょっとエアエッジで遅いかな。これをいくと、僕の気に入っている放送だけが流れるという形なんですね。
どういうことかというと、まぁ僕が、この放送局のやり方は最初に3タイトル、たとえば3アーティスト選べるようになってるんです。僕はクィーンとビートルズとあとジミ・ヘンドリックスとか打ち込むと、それを登録しているユーザーの持っているプロファイルの中から曲を順番にかけていきます。要するにコラボレートフィルタリングですね。楽曲の。[47'04]それをあることによって、ここでスタートを押すと曲が鳴り始めるかな?[間]あ、そのうちこれで。これでMP3のファイルをアイチューンズの方でかけてかかるという形で。MP3のファイルで送ります。これでやっていくと、これはアマゾンとリンケージしていて、アマゾンが今度はAPIというのを作ってるので、アマゾンのAPIからこれらの、僕の聴いている曲のアルバムジャケットが並ぶ。で、そのアルバムジャケットを押していくと、今度そこでこの楽曲が買えるんですが、買ったことないです。ずっと自分の好きな曲ばっかりかかってるので買う必要がないわけですね。嫌いな曲かかればバンボタンを押していく。気に入らなければネクストボタンを押していく。
更に面白いのは、会ったこともないんだけれど、自分と好みのすごく似ている友達とご近所さんになれる。ネイバーフッドという形で。たとえばこのフレッギューブさんというんですかね?まだこれはイギリスのサービスなので、アメリカ人よりもヨーロッパ人の方のが多くて、かなりヨーロッパの人達と曲のシェアをしてたりとか、できるようになってきます。ま、ちょっとやっぱり途切れがちですけれども。まぁこういうのが出てくることによって。これ実はMP3でファイルが小さくなってきてて楽曲が流れるのと、あと自動的にアマゾンで楽曲が買える。
で、もう一つ面白いのが、これは今まで下りだけなんですが、上りもできたんです。上りはなにかっていうと、僕はKNNKANDAっていうミュージシャンになれちゃうんですね。僕がMP3を作ってる楽曲をアップロードすると、アマゾンコムが売ってくれる。で、僕の曲を気に入れば買う人がいないまでも、僕の曲が好きだっていう風にやってくれるとその人達のチューナーで僕の曲がラジオとして、その人達のプロファイルの中に流れるわけですね。これは何かというと、今までのインディーズの曲がどうのこうのとかいうだけじゃなしに、自分たちが今までの情報の消費者だったものが、[49'15][音]あ、いきなり始まりました。ちょっと時間かかってあれなんですが、ストップちょっとしておきます。要するに今までは単なる消費者だったものが、生産者に変わってるんです。
これと同じことが今後近い将来僕はテレビでも必ず起きる。でも30分番組じゃないです。1分番組とか30秒番組とか。もしかすると1セグ放送で携帯でちょこっとみる。たとえば僕が、たとえば「KANNDAです。新作を発表しました」という皆さんに何らかの形でノティファイする方法があれば、あそこのみんぱくの時で話してた神田さんが何か短編映画を作ったそうだ。見てみようとか。で、これを見るか、見ると3円課金されます。もしくはあなたが買うときに、アマゾンで買う代わりに神田さんのアフェリエイトで買ってください、みたいな。それで課金をします、みたいな方法もあり得るわけですね。
で、これが一つはラストドットFMというのがあります。で、アイチューンズミュージックストアというのがあるんですが、これも。これ僕のアイチューンズっていうところなんですけれども、ここのところにミュージックストア。これも非常に今の音楽著作権の変なところなんですが、アイチューンズの日本語版をダウンロードすると日本からはアクセスできませんっていわれるんですが、アイチューンズの英語版をダウンロードするとアイチューンズに入れちゃうんですね。秋葉原に売っているプリペイドカードを使うとどんどんアメリカの楽曲が99セントで買えてしまうんですね。まぁ日本橋でも売ってるんですが、プリペイドカードで買えたりするんですが。それがやっぱり買えてしまう。これ日本でいうと違法にはなってしまうんです。厳密に言うと違法になるんですが、もう簡単にダウンロードされてる。別にこれもアップルもIPアドレスで日本ははじけばいいわけなんですが、そこまではやってない。買おうと思えば買える状態なんですよね。
ですからこれで何ができるかというと、これもやっぱり自分で使ってみて思ったのは1曲99セントで自分の好きな曲がなんでも買えるようになると、CDアルバムで買わなくなったんです。もう大人買いはやめたんですね。もう今まではアルバムで買って、シングルで買ってきて気に入ってる人がいればアルバムの大人買いをしていたんですが、もうほとんどシングルで充分。アルバム全曲聞きたいとは思わなくなってきてるんですね。これも本当にアルバムのジャケットとか並んでくるんですが、今後はですからここのところが1曲全部99セントで買えたりとか、いろいろするのと。あとはこの曲を買った人はこの曲を買っていますよというレコメンド。そこで主張していったりとか、そういうところでどんどん変わってきます。視聴だけでもイントロが興味のある曲なのにイントロがなかったりするといやなので、だんだんそうなってくると買わなかったら3日後になくなりますよみたいな。1ヶ月間は無料で聞けるけれども、買ってないとその1ヶ月後に消えてしまいますよみたいな形でいうと、音楽がどんどんどんどん空気のように消費できたりとかする。

今までラジオがそういうビジネスモデルで、プロモーション目的できてたのが、今やインターネットでどんどんプロモーション目的がきていて。ダウンロードができないだけであって、どんどんそれは自分のハードディスクの中で流通し始めてる。実際今のコンテンツの流通をみても、CD-ROMにしてもなんにしても、ブックオフで売られたりとか。で、ブックオフで流通している。
ゲームの流通もそうですが、制作者にお金が全然戻ってこない仕組みなんですね。結局今のパッケージっていうのはそこのパッケージオリエンテッドなので、基本的に自分は全然お金をもらえてないんだけれども流通はしている。コピーが出回ってるのと、ブックオフで出回ってるのと、何も大して変わらないわけですね、制作者にとっては。それだったらもういっそのこと、もうパッケージやめてネットワークメディアで買いたい人だけがちゃんと買ってもらえて、聞きたい人にはちゃんとプロモーションでリーチするというところが次世代のコンテンツとしては絶対考えられるようになってきてます。その辺でも変わってきてますね。

yahooではラウンチキャストっていうのが、これアメリカのyahooなんですが、yahooメッセンジャーズでもうほとんど、ミュージックTVはほとんど検索して流せるようになっています。僕なんかはクイーンなんかが好きで、クイーンのミュージックビデオとかデヴィッド・ボウイのミュージックビデオって検索すればラウンチキャストでいつでも、自分の登録しているラウンチキャストをやると、自分が見た番組だけと、自分がみたミュージッククリップだけを並べて流すとか、いろんな形で自分だけのカスタマイズするミュージックビデオっていうのができるようになってきました。これから今後そういうことになってくると、自分の気に入った番組だけをハードディスクの中にとっていったりとか、スタートレックだけは毎週とっておいてくれよとかなってくると、どんどんメディアとかその辺のところがインターネット的な影響を非常に受けてくると思うんですね。ちょっとやっぱり回線が今のところ。ごめんなさい。あれなんで、またこれ、ラウンチキャストっていうのを調べれば出てきます。

あと変わり種としては、このポットキャスティングっていうのが、これもそうなんですが、僕のアイチューンズの中には玉石混合な状態なんですね。自分でライブラリーのところでみてみると、ここのレディオなんとかっていうのが。ここら辺みてみましょうかね。49秒。[54'52][ラジオ音声]これ僕がやってるラジオ放送なんですが。たとえば[聞き取れない][55'08]の。また別の。これはサポートセンターとのやりとりを。あまりにも腹が立ったのでラジオ放送してます。はい。こういう、なんかちょっと怖いような放送もできる。
これから今まで泣き寝入りしていたことも、オレオレ詐欺なんかも、「あ、きた!」なんかいってやって、これでもしかすると流すと大ヒット上昇中するような。オレオレ詐欺を実際生で聞いてみたいとか思っている人が投稿ビデオのようにこういうこともあり得ると思うんですね。まぁこういうものとか。
あとは警察に行ってやりとりをして。僕はこれ、先ほどもセグウェイっていう車で書類送検をされた経緯がありまして、お巡りさんに聞いたときには「これは乗っちゃダメだ」っていわれなかったっていうのが、それもどんどんボイスレコーダーという武器があることによって、情報ツールとして、「乗ってはいけないとはいいませんが」っていってる言葉を今度はどんどんどんどんラジオ放送していくことによって、自分の裁判の時の証拠資料にしようとか。いろんな形でこういう情報武装。まぁ著作権的には相手の名前を使わずにいったりとか、まぁそういうのもありますね。
どんどんそういったところで、このポットキャスティングというところで、自分が、僕これ今楽曲とも一緒になってるんですが、たとえば一番気に入っているのが、僕マックキャストっていうのがあって。これなんかすごいのが[56'39][音声]。ちょっとなかなか始まらない。これは別にマックのただ好きなオタクな人が、毎日マックについて20分ぐらい今日のマックのニュースだけを厳選してキャスティングしてくれるんですね。何が楽かというと、マックの情報をみるのに今まではずっとサイトを見ていたりとか何とかするわけですね。そのときっていうのは目が奪われているわけですよね。聴覚、目が奪われていてずっとやっているわけですが、これいいんです。聴覚空いているから、マックキャストを聞きながら別のことやってればいいんですよね。その間にマックの情報が毎日漏らさず、今まで目でずっと追い続けてた10何誌もあるウェブ誌[?][57'39]を読まなくてすむわけですよね。これは非常に情報の圧縮度としては非常に高いし、下手に今まで有料で情報買ってたのがバカらしくなるぐらい。こいつ一つに500円ずつ毎週あげたいっていう気分になるわけですね。これって本当にニューズウィークから全部読んでくれて、解説して、僕に必要な情報だけを、フォーチュンとかも全部読んでくれて。で、日本語で説明してくれるヤツがいれば充分そのエージェントに金払ってもいいかなっていう風に感じてくるわけですね。で、まぁ著作権の問題もあるんですけれども、でも友達がこれを友達の間で、身内の間で、ボランティアリズムで、自分の日記で、ブログで公開せずに、自分の日記をたまたまごく親しい3親等の間だけで公開し始めたときにメディアの価値ってなんだろう?じゃぁもしかするとそこにアフェリエイトでコマーシャルが乗り始めたときに、よほどそっちの方がメディアとしては価値がある時代になるんじゃないかなと思います。

で、あとスカイプという、ちょっと時間的にあれなんですが、はっしょっていきますが。スカイプというP2Pのエスケープ方法があります。これはP2Pが今まではMP3とかいろんなメディアの温床となってきてたんですが、そこから、普通悪の温床といわれたものが今度はもう本当にP2Pで国際電話も全部インターネットでやって、音質が電話よりもいいし、FM放送クオリティで。今僕たちは5人までいけるんですが、そのスカイプのところで、もう逆にラジオ放送ができちゃうんですね。もう電話で5対1とか、n対5でのヤツを今度録音したものをまたスカイプで伝搬していければ、もっとこれ広がっていくようなラジオ放送も可能になってくると思う。

今面白い傾向としては、ブログTVというのが、ブログでテレビがだんだん見れるようになってきています。これも単純に大体1分以内の映像であればここら辺にライブカメラつけておいて、ブログで今日何食ったとかああだこうだっていってるやつを、今までポットキャスティングで喋ってたものが、ここで画面に向かって喋ればいいだけですね。ここで普通のフラッシュのものを使ってるから誰もが。[59'47][音声]で、後にブルーバックがあれば簡単にその場で合成をしたりとか、いろんなことができるわけですね。
これのマーケットニーズとしてはe-bayでものを売るときに。要するに、私の今日の持ってきたこの時計です。今日はなんとこれでこの値段で売りたいと思います。皆さん高く買ってね。みたいな。これでなにかっていうとジャパネット高田がおうちにやって来るという形ですよね。もうそういったところでどんどんどんどんそういう風に、自分がこれでオークションで高値を売ったりとか、ここの会社が信用できるかどうかっていうところで、自分がジャパネット高田社長になってものを売る時代がやってくるんじゃないかなと。で、SNSで注目される地縁社会という形で、もう知っている人とか縁のある人達の中で社会が作られ始めてきているんじゃないかと。それが今までの、知らなかった他人?知っている他人ですね。知っている他人まで伝搬が及んでいこうとしている。そうなってきたときに、人々のコミュニケーションは会ったことがあるかないかっていうのを、今のブログTVであったらなんかこの人信頼できそうだなとか。じゃぁもしかするとUSB握手できるマシーンとか。USBで握手してにぎにぎしたら、向こうもにぎにぎしてくれれば、この人なんか信用できそうだなとか。なんかそういうところとか。あとはでもこの人は僕の友達の友達だとか。今日のお話であった人の友達だと思うと、そこでだいぶ認識が、あったことよりも、誰かの信頼がおける自分の友達の友達であったりで変わってくる。

で、ライフライン型課金の崩壊というところでは、もう本当に毎月同じように電話代金を払ってきてるんですけれども、固定電話だんだんもういらないから払わないですよとか。もう金融で今までは振込料350円払ってましたけど、もう振込料ただのところに銀行切り替えましたよということで、どんどんやっぱり変わりつつあるわけですね。

で、次があれなんですが。先祖返りしてるんじゃないか。次世代インターネット、実は。RDFとかRSSが回帰させる人間の地縁ネットワーク社会という形で。要するにお父さんのいうことを聞く、お母さんのいうことを聞くとか。じゃぁ神田さんから送られてくるRDFだけはみてみようとか。RSSだけは受信してみてみようとか。この人のいっている情報はすごい確かだから、この人の情報はとりあえずみてみようとかっていうのが増えてきます。で、知りたいことを教えてくれるシェマンテックウェブっていうのが。要するにこれはRDSSの情報がまた更に関連づけされることによってシェマンテック型になることによって、必要な情報が引っ張っていくとなんかつながってきて、ここからまた必要な情報だけがつながってくる。この経験を繰り返すことによっても、情報の海の中に裸で飛び込むヤツ誰もいなくなってくるわけですよね。もう基本的に自分のこの紐付けされてる、リンクされてる情報だけで充分なわけです。もうほかのものいりませんよと。
ただ視覚と聴覚だけしかインターネットは今のところフォローできてないですよね。触覚とか嗅覚とか、ほかの五感というのは何も使ってなくて、聴覚と視覚だけしか今のところないわけですね。で、僕たちはそれをリアルで補完する世代なので、やっぱりそこだけでは信頼できないし、堪能ができないわけですね。そこのところを補完する方法というのも考えられるでしょうし、あとは個人の情報リテラシーとプライバシーポリシーっていうところですね。
これから個人情報保護条例というのがいろいろ出てきたりとか、ややこしいことになると思うんですが。やっぱり情報リテラシーっていうのと、個人個人が今度プライバシーポリシーを持っていないとパスワード一つの名前の付け方一つにしても、自分の全部のパスワード1個だったら、フィッシング詐欺1本で全部の、ブックマーク一つから吸い取られて全部のパスワードを全部解読されてしまうという事件が今後起きるわけですよね。じゃぁパスワードも自分の中で、教育的には、ここからここまでのパスワードは第1段階のパスワードがこれ。第2段階のパスワードこれ。もう本当に大事なパスワードはこれ、みたいなところで、パスワードのパスワードのパスワードが必要な、そういったところでの、自分の中での個人のセキュリティポリシーっていうのが、企業だけじゃなしに、個人にも必要な時代になってくると思うんですね。

あと、経年変化っていうのもあるんですが。うちは子ども達が小さい頃からずっと常時接続のインターネット環境を与えてたんですが、子どもの時にずっと更新しているサイトを全部消しちゃったんですね。僕はそれは幼稚園の頃からのウェブを定期的にバックアップをとってたからよかったんですが、もう本人が幼稚園の時に作っていたウェブサイト、中学になるともう恥ずかしいんですね。もう自分の人生抹殺する。親としてはそんな恐ろしいことをみたいに思うんですが。もう幼稚園の時に書いてた文章とかもう恥ずかしくて、もう高校生ぐらいになると、もうしょっちゅうウェブサイトが変わっていくっていうので。これはだから基本的に親としての責任は、子どものウェブサイトは密かにログをとってあげないとダメな時代になったりとか。
あとはやっぱり今のリアルタイムのウェブだけじゃなしに、経年変化にも対応できるようなウェブホスティングのサービスなんかも、実は家族の中では必要だったりするんですね。たとえばそれは家族だけでしかオープンすることができないとか。たとえば結婚、第何親等しか見れないとか。なんか住基ネットとリンクしてないとダメだとかいうところの、どんどんその経年変化にも対応していかなければならない。だんだんそれが進んでいくともう社会的なもののインフラに頼ってたら間に合わないので、もう本当に自分の個人で管理するしかないんですね。[65'27]
だからもう本当に無政府社会というか、個人の情報は個人で、自分でコンサルタントを雇って自分の情報は守るというような、もう本当個人時代に、もしかすると個人間、国ごとの戦争じゃなしに個人ごとの戦争みたいなところから、自分が今どこの国に属しているとかっていうことまでも、たまたまあとで生まれてきたのが、日本で生まれてきただけであって。これパプアニューギニアに生まれた方であればパプアニューギニアの文化の中で育つんですが、これからもっとインターネットが地球の中のインフラを変えていったことによって、自分の生まれてきたバックボーンまで否定することもできるかもしれない。
僕はもしかするとカソリックよりも、実はモスラムの方がフィットするんだなぁとか。これが後天的な教育というのが、それがインターネットでどんどん繰り返して勉強することによって、自分が後天的に学んだことは実は間違いだったっていうのをインターネットで気づくという人達もいるかもしれない。そうすると、アナログでの空気抵抗のない社会っていう形で、どんどん今まで空気抵抗があったから諦めていたことが諦めきれない人達が登場してくるんじゃないかと。

で、これちょっとエジソンジレンマっていうのもあるんですが、これもインターネットの中でたとえるんですが、1879年せっかくエジソンの発明した白熱電球が、まぁ皆さんこれだけ進化したというんですが、実は全然売れなかったんですね。なぜかというと家庭に電力がない。当然ですね。電球灯ってたので電力必要なかったので。で、これから家庭に電力がなかったので、しゃあなしに発電機を発明始めると。で、発電機は高かったので今度は水力発電のダムを造るために強化セメントも発明しちゃおう。で、ダム建設労働者のために安い家が必要で、ベニヤ板も発明しちゃった。で、電気を安全に送電するために絶縁ゴムも発明して、ダムのあまった強化セメントで高速道路も造って。で、エジソンが残したGE(General Electoric)だけでなく、エジソンの下で二人で学んだ日本人は、岩垂(邦彦)さんは日本電気を創業して、藤岡(市助)さんという人は東芝を創業している。実はGMはエジソンだっていうだけじゃなく、NECと東芝も実はエジソンカンパニーだったんだみたいな。
実はこんなこと達ももっと面白いことで、これ何が言いたいかっていうと、インターネットも一緒で。今これはコミュニケーションのツールなんですが、何に使われるか実はわからないんですね。インターネットで必要なものっていうのはどんどんどんどんこれからはエジソンのあの時代と一緒のように開発していくことができる。
で、かつてウィリアム・ゲイツ3世というのですね。これ20世紀の終わりの頃にマイクロソフト社というのを作った人なんですけれども、未来とは5年以内の話のことであると。で、ウィリアム・ゲイツ3世ですら、未来というのはもう5年以上先のことっていうのはわからないわけですよ。もうこれからの社会というのも未来以内のこととして、彼ですら予測ができないっていうので、我々が今後未来っていうことで予測するのはほぼ不可能かなというところですね。

で、電気を照明以外のものに活用しようというのが、これ1917年のシアーズの扇風機のカタログなんですね。当時は電気っていうのは照明のために使うものだけだったんですね。レバレッジされることがなかったので、シアーズで初めて扇風機っていうものを販促で、電気を照明のため以外のものにも使えるんですよって教育を初めて。で、あぁ扇風機も使えるんだっていうので、電気から初めて扇風機にレバレッジされた。
で、おなじようにジェフ・ベゾスがインターネットをコミュニケーションの道具以外に活用しようという提案をし始めてます。カタログ通販の世界とECの違いというのは、やはりカタログ通販のメールオーダーの時代になかったものはPCの進化と、あとはネットワークの進化と、宅配システムの進化と、クレジットカードの進化。この4つのうちのどれか1個でも欠けてるとアマゾンっていうのはあり得なかったわけですね。ですからインターネットっていうこの辺のビジネスっていうのは、既に19世紀と同じようにいろんなセルロイドの発明があってフィルムが生まれたりとかするのと同じような進化の仕方を実はしている。

で、これがちょっと今日の提案なんですが、インターネット紀元前世代であること。生まれたときからのネットのすり込みのない世代であることの認識を我々はしなければならない。今後生まれてくるネットコンシャスなインターネット紀元後との明確な違いを理解していないと一緒に生活していけないんじゃないか。なんでもインターネット世代との格差っていうのがこれからどんどん出てきます。あと5年で迎える大きな人の変化に備えておく必要があります。というのは、ブロードバンド接続で、学校時代にずっとじゃぶじゃぶ家でも家庭でも認識をしたときからインターネットを使っている世代が今後増えてくる。要するにホリエモン[?][70'14]が大量発生してくるわけですね。もうほとんどがホリエモン世代というか。もうずっとああいう感じの人が大登場してくる。
アナログ時代の大政奉還が新個人の時代という形で向かってくると。で、インターネット紀元前、紀元後で何が違うか。常識を学ぶのが我々の教育だったんですが、常識を疑うというのがこれからのインターネット紀元後ですね。今までの常識ってなに?インターネットでバーッとみたら、江戸時代からないじゃん、みたいな。すぐわかっちゃうんですね。
勉強したりとか覚えたり暗記したりとかよかったんですが、もうそんな勉強は暗記しないでもパソコンみればわかるし、あと経験して学習した方がいいよね、みたいに変わってきます。本を読んで調べる、調べ学習、全部ネットですね。全部ネットで調べる。繰り返し学習する。いや、もう繰り返すの面倒くさいからどっかからAPI拾ってきてプログラムに任せようとか。これ1回やったからもう全部これちょっと簡単などこかプログラムないかなぁ、落っこちてないかなぁって拾い集めてこれます。
で、決まりを守るっていうことから、決まりの意味を考え始めます。世界の仲間入り。僕たちは常にこれいつも聞くんですけど、インターナショナルというと世界のお仲間入りさせて頂くみたいな、なんでこんな謙虚になるのかなぁと思うんですが。アメリカでなんか聞くとどうもインターナショナルっていうのは、おれら以外の奴らという言い方してるんですね。アメリカ人からいうと。アメリカ人以外の奴らがもうほとんどインターナショナルという。これかなり違うなぁというのがあります。

で、先達に習うというのがある。先輩から教えて頂くというのがありましたが、これからは新人から。若いヤツがどんなネットの使い方をしてるかを。そこから学んでいった方が絶対面白いみたいなのがあります。で、サラリーマンというところで給与所得者だったものがアフェリエイトマンって。自分が好きなことをして好きなことをやって好きなことを書いてたら勝手にチャキンチャキンとアフェリエイトで儲かってるっていう生き方ができます。
これ資本主義だったものがだんだん地縁主義に。あの人はこの人を知ってるから、あぁこの人だったらすごいねとかっていうのが増えてきたりとか。会社勤めだったのが自作自農で、自分で好きなコンテンツ作って自分で勝手に軒先の自分のブログに乗っけておけば勝手に売れてくれて、野菜売れたら勝手に、このキャベツを買ったらお金をおいてってくれる農家みたいなヤツですね。農協も通さない農家みたいな社会が出てきてるんじゃないかなというところで、ちょっと変わってくる。

で、未来を予測する一番の簡単な方法は、自ら創造してしまうことだってことをアラン・ケイ博士の言葉に代えさせて頂いて、僕の発表を終わらせて頂きたいと思います。[72'46]




討論2

[野島] はい、どうもありがとうございます。

[神田] すみません、ちょっと長くなっちゃいました。

[野島] あぁ、いえいえ。えーと、いろいろと面白い話があると思うんですが、何かインターネット紀元前の人が多い、この研究会、

[神田] たぶん紀元後いないですね。

[野島] いやぁ、まぁそれはそうですけど。是非何か質問とか、コメントとか。どうですか?自分でこういう生活をしてみてどのくらい大変ですか?なんとなく端から見ると大変そうな気もするんですが。

[神田] 結構やっぱり。なんていうか、一つあれだとすると、自分の好きなことをして食ってる幸せっていうのは非常にあります。僕も最初はサラリーマン時代があって、独立したときにやっぱり向かっていく方向が変わったのが、ちょうど26、7ですかね。独立したときに。その時にやっぱり、朝起きてみんな駅の方に向かうんですが、自分だけ駅の方向に向かわない。3ヶ月間ぐらいSOHO時代っていうのがあったんですが、そのときがすごい一番不安でした。今まで小中学校、会社勤めも含めて、ずっと駅の方向に向かう生活を平日は向かってたんですが、それが向かわない3ヶ月はすごく不安はあったんです。いや、逆にそれでも行けるんだっていうので、自分の人生を自分でハンドルを握って、アクセルと、まぁ僕の人生にはブレーキついてなかったんですけれども、それはそれなりに面白い生き方ができる。で、いったんこの道を歩いたら、やはりこの道を歩き続けないと価値がないんですね。価値観って、商品価値がないんですね。ですから人のやれないこと、やってないことをする。人のやってることとか、得意なことっていうのは敢えてもう挑戦しない。[74'47]人のやってないこととか、何か人と違うことをやりたいっていうところで行き始めてから、まぁ大変そうにも見えるし、ですけど本人はいたって楽しみながら、すごくラジカルにやっていきながら、今のこの時代だからこそ生きていける職業なのかなぁみたいな形で思ってます。

[野島] ふんふん。あと最近例のバーを開店されましたよね。

[神田] はい。

[野島] あれはまさに出会いの場みたいな形で。どんな感じですか?反応は。ちょっとご存じない方も多いと思うので、どんなものでっていう話も含めて。

[神田] そうですね。[75'26]今ここでナウ・オープンって、クローズドメンバーシップITバーという形で、ソーシャルネットワーキング・ドット・バー・アット・シブヤという形で、渋谷のセンター街に、最初はバーを開こうと思うんじゃなしに、まぁバーみたいな雰囲気の事務所がほしくて。で、事務所を探してたんですが、なかなか事務所にバーコーナー作ってどうのこうのすると大変だったので、バーをそのまま事務所にしちゃうのアリかなと思って。で、それで自分の知り合いだけを呼んでバーらしきことをやってみたいと思ったのと。あとはソーシャルネットワーキングで一番ビジネスモデルとして、これ儲かるビジネスはオフライン・ミーティングといわれている、オフ会といわれている、必ず会うところ。ネットで3000円儲けるのすごい大変なんですが、居酒屋で3000円一人ずつ徴収するのはいとも簡単なんですよね。これは先ほどいっていた、ポケットマネーっていうか、忘れられるお金。ネットのお金って一番大変なのは覚えておくコストの方が高くて。要するにデビッドカードみたいにその場で消えてなくなってくれればいいものを来月まとまってやってくるからすごく面倒くさくて、買い物するのも面倒くさくなったりとか。よっぽど自分のサイクルの中で習慣付いているものでないと買いたくない。だけどもリアルな部分でいうと、すごく課金がやりやすい。で、事務所でバーコーナーがあったときには課金はできなかったんですが、バーの中に事務所を作ることによって課金ができてしまうんですね。はい。

[野島] なるほど[笑]。

[神田] はい。で、それから本当にそれ課金ができてくると、あとで保健所にも出さないとダメだとか、警察にも出さないとダメだとか、いろいろ今の法律にあてがう方向にあとで動き始めたという形です。基本的には今宣伝はソーシャルネットワーキングだけで、大体どんな人がどんな人を連れてくるかっていう文化人類学みたいな、この人は誰を連れてくるのかなみたいな、大体知り合いでしかやってない。営業時間は夜の9時から12時まで、1日たった3時間しかやっていないんですが、これ人件費かけると大変なビジネスになるので人件費も3時間ぐらいなので、まぁそれぐらい自分の力で、まぁいっても24時間分の家賃を払ってますから、昼間はセミナーをやったりとか、あとはそういうオープンソース系の開発のプログラマーの人達に、僕は何かインキュベーターと呼んでるんですが、彼らからするとなんか、なんですか。なんとか場。なんとか労働者が放り込まれた、あ、タコ部屋ですか。

[安村] タコ部屋[笑]。

[神田] 彼らからするとタコ部屋みたいな。いいながらRSSをいろいろ開発したりとかですね。その代わりうちは飲み物と食事を提供してるよみたいな形で、そういうインフラをやったりとかして。ちょっと変わった形のバーをやり始めたという感じですね。

[野島] 何か。あ、安村先生。

[安村] いや。神田さんのおっしゃること、すごくよくわかって、共感できる部分も多いんですけれども、一方で神田さんみたいに、どちらかというともう露出してもある程度しょうがないというか、自分の仕事だと思いこんでる人と、まぁ非常に限られた本当にソーシャルネットワークでも、スモールワールドじゃないんだけど、どこかでそれを自分の本当に個人の、たとえば自分の子どもが受験したとかなんとかが、なんか流れていってしまって、それに対する恐怖感というか、人によってやっぱりそれメンタリティが違うかもしれないし、そこに対する心配があるんじゃないかということが一つと、それからさっきの個人で管理する時代っておっしゃいましたけれども、結局今無料のヤツが、いろんなサイトとかあると、そこに全部自分の写真だとかなんか入ってしまってるわけですよね。それがテキストマイニングでなんとかやられている可能性がないとは言えないですよね。そういうことと、じゃぁ自分でそれをハードディスクでやったら、それに対するシステム管理は自分でやらなきゃいけないとか。逆にそれをトラッキングされたときの恐怖もあったりするんですけれども。ちょっとまぁネガティブな面言い過ぎでしょうか。

[神田] いえいえ。

[安村] おおむねそのポジティブなところは結構賛成できたりするんですけど、そういう。一つは自分の個人情報をどこまで。まぁ一応今地縁ということを枠組みをはめられておりますけれども、そこら辺のことをどうするかとか、さっき一部ちょっと出てきましたけども、自分の情報をアップロードしたためにそれが何か利用されてるんじゃないかとか。その辺についてはどういう風にお考えですか?

[神田] そうですね。[79'44]まず、もう本当にここの場に普通に赤い格好してる人まずいないですよね。新幹線乗って東京から来ると女性ぐらいしかいないって。まずもうこれ自体で僕はもうとにかく認識されているということで、まずこれで何百人ともうたぶん相手は自分のこと覚えてるんだけどっていうのが、まぁひとつの自分の出し方としてあって。で、やっぱりそれは自分の中で、たとえばメディアに出てくる僕っていうのは僕の中では客観的にみてるわけですね。もう僕じゃないです、実は。これ脱いだ瞬間からプライベートに戻って。着てるときはオフィシャルな感じで。まぁそういう風な形の自分っていうのがあって。で、ネットのところでいる僕は、実は本当の自分じゃないんですね。僕っていう形の、みんなが思っている自分を自分も演じてるっていうところがあって。ですから僕は公開をしてるっていうのはたまたま自分の関係を使ったこういう役者をやってる感覚で、本当の自分は絶対自分のことを出さないみたいなところも実はあって。で、一つはでも、ネガティブ面でいうと、何が起きたかっていうとあんまり大したこと起きてないんですね、実は。クレジットカードで被害があったかっていうと、まぁいろいろメールがいろいろなものがきたりとか、フィッシング詐欺とかいろいろくるけれども、まぁこれカード会社にいえばすぐ止めてくれるし。なんかそれほど大きな被害もないし。子ども達とか家族もかなり子どもの時から露出していてやってるんですけれども、まぁそれによって問題はなくて、むしろそれよりも家庭が悪くなったのは自分の個人的な問題で家庭がディボースしちゃったというのが。ディボースっていうのも、これは全然ネットとは関係なかったなぁというのもあったりとか。で、それで一つは個人情報絶対出したくない人もいる。で、逆に出すことによってのメリットがある人もいる。出し方も今非常に選ぶこともできたりとかするんですが、そこの部分が何か危ないですよーと警鐘ならしても、何かやるとダメですよっていうのと、あとはもうやっている人はいてこんなことが起きてますよというのがあって。なんか不要な、保険会社の営業的な、入ってないと不安ですよね、みたいな。でも確率的にいうと入らなくても大丈夫な人がいるから保険会社のビジネスは成立するので。入らなくても充分オッケーなんですよ、みたいな。これなんかもアリなのかな、みたいな。それを思うと、逆に何か一つはその部分で、個人が個人でロックをしないとダメだっていうのも。一つはテクノロジーっていうのはわりともう、今ネットのテクノロジーは研究開発でR&D(Research and development)がないとできないかっていうとそんなことなくて、簡単にPHPが書けるヤツがそこらでいるだけで犯罪も起きるし、世の中転覆するようなウィルスを作ることもできる。もうそうなってくると隣でなにかされて原爆作っていてもおかしくないぐらいの状態なので、どれだけ強固なセキュリティがどうのこうのしても、もう逆にダメなんじゃないかと。地震とか津波と同じレベルでもう考えてきたときに、いざなったときに自分がどう生きていくんだっていう自分の生き方とか哲学的なポリシーを持ってないと、結局あそこの国ではこういってますよ、こっちの国ではこうですよとか、宗教的にはこうですよとかっていうのに左右されることよりも、何か自分の一番生き方の近い人達と何かネットワーク上で見つけたりとか、それがあったこともあったりとか、何か自分の信頼性をおけるような方達と何か作ったりする。そういう強固なコミュニティを作る必要があるのかなと。
僕最近ちょっと余談ですけれども、ペ・ヨンジュンさんの公式サイトに一生懸命入ってるんですけれども。あそこのコミュニティは荒れないんですよね。荒れないんです。荒らしが来ると必ずみんなで防御してくるんですね。これは2チャンネルとかでは絶対あり得なかったんですが。要するにみんなペ・ヨンジュンさんが大好きな。で、やり方がうまいのがペ・ヨンジュンさんが入ってきたときも、みんな家族の皆様から入るんですね。あ!家族の皆様で入ると荒れないんだっていうのが、これもやっぱり非常に学ばせて頂けるところっていうのもやっぱり家族の皆様っていう風に相手が接するんです。家族なわけないんですけれども。でも家族の。私を支えてくれる家族の皆様なんだっていう接し方をすることによって、自分も家族の一員だというのが、もう誰もがネットに入っているコミュニティの人達が思うこともあって、そのコミュニティを荒らされたくないっていうので、少々変な人がいてももう誰も相手にしないで無視しましょうよって。で、なんか対応している人がいたら、それはたぶんメールか何か私信でこう「まぁまぁまぁ」という風な押さえ係か、みんなが動いてる。だからそういう意味では自浄作用というのが、みんなが、個人個人がそれのスキルを、ペ・ヨンジュンのファンは身に付けてる。ただメディアに出てくるのは、ペ・ヨンジュンが来ると空港で群がってるおばさんしか写さないですけれども。実のところはそんなんじゃない。
で、僕自身もこのカッコでイラク、バグダッド取材を行ってきました。実際ちょうど3人が拉致されてる時期ともう本当に同じで、あれも本当に高遠さん達とちょっと時間がずれてれば僕たちも高遠さんと同じようにタクシーに便乗していってたので。あそこで僕が捕まっててなんやかんやいわれててもおかしくなかったとは思うんですけれども。もういたって平和でした。[85'26]僕はそのいたって平和な情報をテレビ局に売り込もうとしてるので、当然買ってくれないですね。要するにテレビ局としては、イラクはこんな大変だという映像がほしいわけで。ですからその辺のところも、やっぱり本当の真実をジャーナリズムを届けてると、ジャーナリズムって職業としてはあり得ない。ただでもだんだんその辺のジャーナリズムもブログで、大手の新聞社を辞めてブログで食えるジャーナリストも増えてくることによって、なんかそういう意味では情報を出したい側にとってみると無駄な空気抵抗がどんどんなくなってきていい社会に、いい社会かどうかわからないですけれども、まぁアナログの大政奉還する前のフジサンケイグループメディアみたいなところからすると、もう横からなんかインターネットでどうのこうのっていわれてもすごく面倒くさいところで、挨拶がなかったとか、Tシャツで来てるとか、なんかそれってコンテンツ作るのにすごく大事なことなのかどうか。でも礼儀をわきまえてないからダメだっていうの、それも一つのプロトコルだとは思うんですが。そのプロトコルをかっ飛ばすことによって、新しいプロトコルで結ばれる人達もいるんだというところが、これからたぶん紀元前、紀元後のところで大きな世代間格差が国家的にも、言語も超えて、時差だけが超えられないみたいな、そういうところがなるんじゃないかと。すみません、ちょっと長くなって。

[安村] いや、ちょっと話に出た2チャンネルなんですけどね。バーチャルなだけじゃなくて、親近がすごくあって、普通の実社会では、先ほどいったようにソーシャル行動というか、お互い人と会ったらまぁちょっと礼儀正しくしようとかそういうことが働きますけれども、ネットの社会の場合はそれが突然消えてしまったり、もう、なんていうかな、戦国時代になってる。それっていうのは将来的にだんだん落ち着くようになると思われるのか、それともなんか、やっぱりそれをコーディネートする人が、管理者みたいな責任でそこはちょっと。ここのサイトはこういう風なんだからこういう風にしてくれとかいう力が必要なのかとか、その辺に関してお考えはどうなんですか?[87'28]

[神田] そうですね。僕は2チャンネルは荒れてると思ってないんですよ。

[安村] 荒れてるというか。まぁ自由に発言できるという意味合いもあるけれども。[聞き取れない][87'37]したりとか。

[神田] いやいや、じゃなしに。じゃなしにですね、我々にとっては荒れてるようにしか見えないんですよね。でも書き込んでる人達は、もうおまえもなーってやってるのは、挨拶なんですね、一つの。基本的に誹謗中傷し合うのは一個のしゃれみたいな、挨拶レベルでもう許容しうる範疇にまで来てるのかもしれない。で、2チャンネルの中での挨拶はあれでよくて、でもそれがもう若年層においては学校の中でもそうだし、それを見て日本語が荒れてるとかっていうのはすごくいわれるんですが、それはそれでもう仕方のないところで、受け止めると非常に、まぁ不快感を持つというのも当然。便所の落書きをみても不快感を持つ人は持つし、でもこれは自分の家じゃなかったらいいやと思う人達もいるでしょうし。で、やっぱりブレーキングガラス理論じゃないですけれども、割れたガラスの中でずっと育っていると割れたガラスっていうのもこれが普通になってくる。で、逆にその割れたガラスの中で生活している人にとっては、割れてないガラスは息が詰まりそうだみたいなものも出てくるでしょうし。ただやっぱりどうしてもインターネットがこういう匿名性で出てきていて、たぶん2チャンネルみたいなメディアは欧米ではあまりないんですね。やっぱり欧米では堂々と喧嘩しないと喧嘩したことにならない。ただ我々日本的に陰湿というか、ウェットな文化としては、実はいじめたかったみたいな、じつはなんか悪口いいたかったみたいなところが、今のメディアにしても全部言えてることで。やっぱり日本的に、これはちょっとわからないですけれども、なんか国民的に何かそういうウェットな部分の文化が実はそういう抜けるところがあることによって逆に補完できたりとか。

[安村] じゃぁあれはあれでよいということ?

[神田] そうですね。ホラームービー、殺人映画があるようなのと同じように、実は本質的には持ってるんだけれども、それをどこかで緩和してるから逆に実際に本当にそういうことをする人がいないというのもあるでしょうし。でも一つはでも、サーバー方で管理しているわけで。基本的に何かいろいろなことをやろうと思ってるのができてるのと。で、一つ面白いのは、ヒロユキ君という、彼なんかは、僕は書類送検されたときに全然提訴踏み込まずに勝手に司法の判断に任せてその中で自分の中で短期的に終わらせたかったんですけれども、彼みたいにもうしょっちゅうサンダル履きでずっと控訴を繰り返して、で、繰り返している限り負けないんだからっていう、根性の座っている人達が出てくると、これはこれでまた控訴繰り返して、控訴控訴で、で、弁護士もつけずに自己弁護で。要するに自分の時間がある人の方が勝ちなんですよね。彼に税金使ってる方がもったいないですね、実は。いろんな司法の関係の人達の、結局そういったところも含めて、何か今までのやり方みたいなところが通用しない。僕なんかもそうですけれども、東京拘置所に入ることに対して全然、セグウェイ乗っただけで拘置所入るってこれ歴史的に証明されると、50年後にはこんな時代があったなといったときにすごく面白い、車自動車運転して牢獄に昔入れられたことがあるんだよっていう人と同じような認識かなと思ってる。で、まぁ、実際拘置所入って来たときに、週刊アスキーの連載をとってから入ってたりとか、そういうのも基本的に計画として、セグウェイ乗って拘置所に入るっていうこと自体がどうよっていう、一つのイデオロギーの証明としてそういう選択の道もとっても。まぁ僕はこれ就職をどこか、国家公務員にこれからなろうと思ってる人間だったら絶対そんなことはやらないんですが、そのあたりなんかもやっぱりだんだんそういうことで脅されても動じないとか、後ろ盾に頼って生きてない人っていうのはすごくそういう時って強いものがあります。その辺なんかも、たとえば僕がビル・ゲイツのインタビューしようと思ったのも、ビル・ゲイツそこにいればすぐインタビューできるんですけれども、日本の大手メディアの人達は大手メディアのいろんな制約があって下手なことできないわけですね。でも僕は全然関係なくて、そこで現場で一本釣りしないと自分のメディアの価値がないからっていうところでは全然アプローチが違ったりとか。その辺のところもどんどんどんどん何か価値観が変わってきてるので、2チャンネルというのも一つの情報の選択の一つのメディアとして、欲求不満な、リストラされた人のはけ口としても、内部告発のコンプライアンスの場としてもアリなんじゃないかなと思うんです。

[野島] あの。あぁ、どうぞ。じゃぁ國頭さんどうぞ。

[國頭] ホリエモンと同い年で同窓で、同窓生だったはずなのに、2桁も3桁も収入が違うのどうかと思ってるんですけれども。まぁそれはおいておいて、今日のお話は、僕の理解だと基本的にまずコンテンツの話と、人を特定するようなそういう意味の話っていう本質的な問題と、ビジネス展開する上においては希少価値を持たせるということが大事だよというところが、僕なりに受けとった中の大きなポイントなんですけれども。まぁ僕は工学系なので、まぁもしかしたら紀元後世代の方に入るのかもしれないんですけれども。基本的にそのコンテンツは、今日の話だと流れ方のコントロールをするというか、流れ方を決めることが一つ大事だと。もう1個大事なのは、その中味を選別するのが大事だというのがおそらくこれから大事になってくると僕も思っていて、あと中味を選別すると同時に、発信している人自体を選別するっていうのがすごく大事だという風にとらえてるんですね。で、そこでその中で、まず2つぐらいポイントなのは、次世代っていうのはいったい何なんだろうっていうところがまず一つで。たぶん、いやもうまずインターネット使うこと自体次世代じゃない?っていう風に思ってらっしゃる方もすごくたくさんいらっしゃると思いますし、どこからいったい、次世代っていったい何が変わるんだろうっていうところが一つ。で、もう1個大きな問題は、みんなが情報出していく側になったとして、確かにソーシャルネットワーク、まぁ2チャンネルの前にニフティっていうコミュニティがあって、あの中は全然荒れてませんでしたよね。ソーシャルネットワークの生まれ変わりだという説もあるくらいで、ある種のコミュニティなんですけれども。みんなが出していくようになって、コミュニケーションをネット上でやるっていうのがすごくポピュラーになってくるとは思うんですけれども、それは果たして家庭の、なりうるのかっていうこの2点が非常にどうお考えなのか教えて頂ければと。一つ目は次世代はなんだろうっていうことと、先ほど地縁っていってますけど、僕は完全にネットの上と実世界は切れてると思っているので、家庭にはなり得ないと思ってるんですね。でもホント全てがネットだと思ってる人はそれに近づくのかもしれないんですけれども。果たしてネット上のつながりというのは、家庭にまでなるんでしょうか。ペ・ヨンジュンの[聞き取れない][94'50]

[神田] そうですね。まず次世代であるかっていうのは、たぶん僕はこのエジソンのジレンマと一緒で、今のインターネットというのがコミュニケーションから出てきて、ようやく何か、まだまだ発展の途中にあって、もう次世代っていうのは世代ごとで変わるんじゃなしに、たぶん今101匹目のサル状態みたいな。SNSがそうなんです。ブログもそうですしSNSもそうなんですけど、わりとブログの時はまだぽつぽつと出てきて、それを見てからリビルトしていったところがすごくあるんですが、SNSはなんか世界であちらこちらに同時多発的に出てきてるんですね。これは非常に今までのインターネットではなくて、インターネットの一つの、一番ハブとかになり得る人達がバーンと何か推進力を持ってやり始めるっていうのが今までのインターネットの形だったんですが、ちょうどやっぱり100匹目のハブぐらいが出てきて、なんかノードだった人達も急にハブとなり得るみたいな。そこでいきなり進化してきてそうな感じが。

今日最初にあげましたコミュニティパワーがコンテンツのn乗で、参加のn乗で増えてくみたいなところで、何か一気に臨界点に。今まではなんにもなかったのに、これがブログとかなんとかでっていうのはこれは端末だったりとかそういうのにまだ来てるんですけれども、何か急にインターネットのテクノロジーが、たとえばこのRSSとかAPIっていうのもgoogleが始めたりとか、アマゾンが無料で使っていいっていうので動き出してるところが、一気にそれを使って面白いサービスを誰もが考えられるっていう。いきなりもう最初から発明、R&Dで発明するんじゃなしに、人の発明の上に乗っかって、ちょこっとだけ、こことここくっつけただけでもすごく面白いことができるってところでは、すごく次世代インターネットという今ビビッドに新しい局面、もしかすると視覚と聴覚以外のところにも及んでくるようなメディアになりうるのかなぁみたいな。
さっきのポットキャスティングっていうのも一つの情報が、誰かがラジオで喋らなければそんなこと考えなかったけれども、僕の必要なことを全部喋ってくれてる間に僕はほかのことができる。時間のリストアができたりとか、それは大発明じゃないんだけれども、小さいところの複数の関わり方と、自分の中の情報の取り方によってすごく、こうですよっていうんじゃなしに、その人それぞれのインターネットの使い方っていうのが千差万別なものに。今はみんなメールでウェブで何とかだけれども、うちは目覚ましと連動していて、インターネットで時報が鳴るとシャワーが出るんですよ、うちの家は、みたいなところも出てくるかもしれない。それはもう既に聴覚と視覚超えて、五感の中の自分の家庭の中のアメニティを調整するようなもの。ベッドから出てきたらRSSをベッドが配信してくれるとうちのコーヒーを沸かしてくれて、新聞は勝手に最初のページが立ち上がって、昨日のテレビ番[聞き取れない][97'57]はかるっていう。たぶんモダンタイムスみたいなこともできなくはないかなというような。あともう一つなんでしたっけ。

[國頭] 家庭になりうるのか。

[神田] あ、そうですね。もう一つが、僕は今だんだん思ってるんですけれども、会ったことがある人だから信頼できるかっていうのもだいぶ変わってきているんですね。ほとんど最初オーカットというSNSで、すごく日本人で最初で、まぁ300人以上の世界のノードとつながっていくっていう形でずっとやってて、面白いのは海外旅行いくときに必ずそこのオーカットで見つけた人のところに、たとえば北欧に行くときは、ノルウェイへ行くときに、えーとノルウェイじゃないな、デンマークに行こうとしてデンマークで検索をして、デンマークに僕のオーカットの友達が何人いるか調べて、自分のデンマークに行く予定を入れて、その何人かにもう投げちゃうんですね。何月何日から何日までアムスに行ってきますよって、そこからコペンハーゲン入りますよって投げると、何人か返事くれるんですよ。じゃぁ会いましょうという形で。で、会ってきても、宿は決めてないです。じゃぁうち泊まりに来てくださいよって。僕は平気で泊まりに行っちゃうんですね、そこに。で、ダメだったらもう寝袋もあるし、みたいな形で。でもそこに行くと、もう1泊して晩ご飯一緒に食べて1泊してそこからなってったら、今までのネットがなかったら全然知り合いにならなくって、コンテンツ的なつながりも何もないんだけれども、ネットでそれで1回行って泊まりに来てすごく仲良くなったりとか。それはたぶん僕が最初に自分の情報をできるだけ公開していて、こんなことを書いていてこんなことをしていて、で、言葉少なくても映像で出してたりとか。ジャーナリストでこんなことでっていうところがあるので、まだ向こうもそうなのかもしれないですけど。なんかそこで泊まりに行ってパッとなってきた人と、あとは日本で何回も会うけれども別に一緒にご飯も食べたこともない、泊まったこともない関係と、なんかその辺のところで出会うべくして出会ってる人と、どっちがシンパシー感じてるかっていうと、そこでやっぱり家まで泊めてくれるっていうのは、まぁ日本人はなかなかないですよね。まぁアメリカ人とかもルームシェアとかしてるのでその辺の考え方も違うのかもしれないですけれども。そこを考えると僕は実はインターネット紀元後になればなるほど、たまたまの偶然性でここの現場でリアルに出会う人よりも、むしろ自分とのコンピュータのお見合いじゃないんですが、自分と絶対共通点の多い人達を作為的に選ぶことができるネットの方が、実は本当はリアルな、リアルっていうか、実はそちらの方がリアルなコミュニケーションした方がいいことが多いんじゃないかなっていつも感じてるんです。
やっぱり僕は紀元前なので、インターネットだけだとまだそこまで信頼性はないんだけれども、でもそのうちネットだけでも充分自分の方だったらこの人は実際に会うよりはネットだけの方が、下手な空気抵抗感はなくて信用できるっていう意味では、リアルとサイバーのヤツが転換される時期もやってきてもおかしくはない。これ基本的にはやっぱり会わないと落ち着かないっていうのがあるんですけどね。でもそれがだんだん今度、今のだんだん見てると、子ども達も見ていると、ネットのところでなんとかで。で、結局僕たちはネットは信頼しないけれども、新聞とかテレビは信頼してたんですけれども、だんだん今の子ども達はテレビも信用あんまり、そんな大差ないし、ネットも信用しないし。大事なのは自分の中の価値観みたいな。友達も信用できない、親も信用できないみたいな。だんだんちょっと変わってきてます。ですからその2局面が、まぁ僕はあんまりどう変わってもいいんじゃないかなと思う。[102'02]

[佐藤浩司] 今の、

[野島] 佐藤さん。

[佐藤浩司] 國頭さんに関係して質問なんですけど。神田さんの抱いている将来の社会イメージに関してなんですよ。それで、先ほど国家がなくなるっていうような話をされて。まぁそれはそうかなと思う面もあるし、国家っていうのは想像の共同体っていって、実際に対面していない人達同士がある種の共同の幻想を持って生きている社会ですよね。それをネットワークがたぶん壊していきますと。みんなが自分史をえがくようになったら、共通の歴史なんかできないわけだから、なし崩しになっていくだろうという気はしてるんですよ。そこまではいいんですけれども。前に塚本先生っていう方が来てそのときにも感じたんですけど、彼もITの最先端なことやられてますけれども、やっぱり対面的な人間関係をとても重視してるし、家族とかもとても大切にしようとしてるんですね。人間が理解し合うというか、愛を求めるというか、そういうことが至上命題としてあって、それに対してIT社会は寄与するという。人間関係を結びつけることに役立つんだって、たぶん、それが善だと思ってるんですよね。本当にそうなのかっていうのが一つあって、最近、人間って本当に理解し合うことなんて望んでいないのかもしれないなって思う。あんまり理解し合うってよくないのかもしれない。文化って人間同士が理解し合うことを妨げてるんですよ。たとえばネクタイを締めているだけで、その人が何者かっていうのを問わなくて済むわけだから。たとえば赤い服を着ていたら、自分は何者っていうのをいちいち説明しなきゃいけないから面倒くさいでしょう。ネクタイ締めてるだけでどこでも行けるっていうのは、それは文化がなせる技で、いちいち自分がなにかって説明したくないから、意外とそれで済ませたいと思うところ結構あると思うんですね。それに近いことがたぶん家族や家庭にもいえるんです。さっきの話のペ・ヨンジュンの家庭っていうの、実際はあれは宗教というか、みんな勝手なこと考えてるんだけど、ペ・ヨンジュンというイメージの、家庭というイメージの中で縛られて本当の真実とはまったく無縁のところで結びついているわけでしょう。それがみんな実は真実を語り始めたとたんに、たぶんそれ家族、家庭的なそういう平和な世界は崩れてしまうはずなんですよね。実際の僕らの家庭もたぶん愛を求めたりとか、本当に理解し合うっていうのを理想としていくと、たぶん行き詰まってしまうのかなと僕は思っていて、国家が解体するのと同じように、家庭も解体していくだろうと思うんですよ。ですけど、まぁそれはそれとして、インターネットというのは人間と人間の間に何らかの改革を引き起こしつつあることは主張されているんですよね。なんかインターネットジェネレーションとかがあるわけだから。そのときにインターネットは人間関係に対して何を変えるのか。人間関係をより親しくする方向に行くのか、それともそれとはまったく違う何かを引き起こしているのか。それとも人間関係を、まぁ文化。新しい文化っていうか、そういうペ・ヨンジュンみたいなね。嘘で塗り固めるような、実はコミュニケーションしているようで全然自分のこと話してるだけのようなそういう世界だってあり得るので。そういう人間同士の関係に対して、何か結局やっぱり人と会わなきゃダメなのか。何かを変えてるんですか?変えていくんでしょうか?[105'33]

[神田] 僕が一つ思うのは、個人の時代っていう言い方をしてるんですけれども。何か今までっていろんなところに関わらないと生きてこれなかった。衣服一つにしてもものを買うことができなかった。お金がないとものも買えないみたいな。じゃぁ働いていく家族構成があって、お父さんが働いてくれるからものが買えたりとかっていうのが、僕は何かデジタル時代の自作自農みたいなところで、僕なんかもそうですけど、たぶん20年前だったらこういう職業で生きていけないわけですよね。でも今の時代でインターネットがあるからこそ、こういう変な生き方をする人達が当然増えてきて。今も高度成長期の時にこういう、中流階級を目指すっていうところでずっと働き続けて、みんなが働いているから働いていることがいいことだっていう風に動いているのが、なんか今価値観が変わってきて、フリーターっていうのもフリーターっていう言葉があるからこそフリーターが認められてるし、引きこもりっていう言葉がなかった時は「あの人ちょっとおかしい」とかいう言葉で全然話題にならないというか、ひた隠しにしてたのが「あ、うち引きなんですよね」「あぁ引きですか」っていうことで社会的に認められたりとか。その辺のところでも非常に変わってきてる。あと僕はインターネットがやっぱり結びつきを、今まで余分な、関係しないでいいところまで関係したところの余分な鎖を断ち切ってくれてるかなと。自分が関わっていきたいところだけを、だけでいいんだっていうところで決めた人にとってはすごく、断ち切るための道具としては。関係ない人とはもういいよっていうので、ドライに割り切れる一つのツールなのかなぁと思いますね。

[佐藤浩司] でもその赤い服を着たときは仮の姿で、やっぱり本当の自分はそれじゃない。で、それは脱いだときだって。

[神田] そうですね、そうですね。

[佐藤浩司] そうするとインターネットは嘘を発信する場になってる?

[神田] そうですね。それもできますよね。要するに情報をコントロールすることもできるし。逆にインターネットで表の部分と裏の部分を使い分けることができたりとか。

[佐藤浩司] 本心を問う[?][107'55]するようなネット社会で、本当の自分をさらけ出そうというようなところは全くないんですか?

[神田] いやぁー。

[佐藤浩司] 本当のっていうのは、すごく区別が変だけど。

[神田] うん。それもおかしいんですけれども、まぁ自分の中で、要するに二面性がある。もうネットではジキル博士でハイド氏みたいなところも当然あるでしょうし。自分の中で客観的に見ることもできれば、主体性を持って思うこともできますし。ちょっとたとえ変かもしれないですけど、僕は右目はアメリカに網膜、角膜を寄付というかドネーションしていて。こっちフランスだったりとか。あと臓器はあちらこちらの国に提供して思ったんですけど、全国のドネーションの仕組みなんかも、たとえば僕が死んだあとに、この角膜を使ってくれる人がもしもわかれば、何かそれはそれなりにその人に対しての勝手なシンパシーは抱いているのかなみたいな。僕の角膜がその人の体の中で生きてるとか、そういうところを思うと、心とか体ということも一つの、単なるパーツでしかなくて。今ここに宿ってるのは僕もこれも一つのこれはツールだったりとか。僕の腎臓とか髄液とかもリプレイスが利くための一つの一個のツールだと思うと、逆にそのことによって、酒を飲むときに肝臓、次の人のことを考えてちょっと控えてこうとか。いわゆる、だから全部自分の体は自分のもの、もしくは親が生んでくれたものという意識があったものが、実際ちょっと変わってきたりとか。あとはそういうところでも違うでしょうし。僕も死にかけてることが何回もあって、逆に刹那的かもしれないですけれども、いつ死んでもいいような濃厚な生き方をしたいなと思う。

[佐藤浩司] それはたとえば、ネットが普及する次の世代はそういう方向に行ってくれるという期待がある?

[神田] んー。期待っていうよりも、そういうちょっと変わったエキセントリックな生き方も充分あると思うんですよね。エキセントリックな生き方で、ピエロをやりながら暮らせる人がいるのと同じように、一つの職業として常に奇抜なことをやってて生きてたりとか。あとはずっとプラモデル作るだけでも、別に会社組織を作らなくてもプラモデルを作っていくだけで充分お金が儲かる人達もでてきたりとか。そういう一つの。

[佐藤浩司] バリエーションが増えたんでしょうね。人間の。

[神田] そうですね。アプリケーションが減るごとに増えてきて。それがいいかどうか悪いかは、それはまた個人個人の思いであれだと思うんですけれども。逆に僕なんかもネット全然見なくて幸せな日もすごくあるし。でもそれが今度くると、ネット見てないとあとのしっぺ返しが大変だから、またやっぱりネットにずっと漬かっているっていうのがあるけれども、今のインタフェースだったらまだまだ、もっと大きな画面でいつでもどこでもっていうデバイスがもっと進化してくれないとフラストレーションすごくあるので。何かそちらの方にアクセサレートができるのが僕にとっても楽しいのかなみたいな。[111'03]

[野島] すごく面白くて。ただ、たとえば幅が広がるってことでいったら、昔でもある種の芸能人みたいなある種の異端っていうのはあったんですよね。そうすると、この今生まれてることっていうのが本当に、まぁこういう議論してもしょうがないかなぁと半分は思いつつ聞くんですけれども、一つの話としてお話の中でペ・ヨンジュンさんの家庭みたいなもの、あるいは先祖返りみたいな話がありますよね。もう一つの話として、全然今までとは違った新人類というか紀元後みたいな話ありますよね。だからその2つっていうのが、なんかまだ分離しているような形があって、そこはいったいどういう形で重なっていくのかなとかね。先祖返りとか、やっぱり家族とか家庭とかっていう風にいっちゃうと、ちょっと胡散臭いなぁって話になりますよね。そうすると、新たな、まぁ名前を付ければいいって話でもないんですけれども、ヒッキーじゃないんですけれども、新しい言葉とか概念とかって考えると、生まれてくる新しいものっていうのがいったい何なのかとか。たとえば先祖返りとかってことをいっちゃうと、なんとなくすごく保守的だし。結局のところどちらかというと無難な方向にしか行かないような気もしちゃいますよね。そうするとどういう言葉で表現したらいいんですかね?自分自身はどういう風に。自己紹介するときはどういう風に?私は・・・なんですみたいに端的に言うと。

[神田] 端的に言うと、そうですよね。非常にこう、

[野島] ビデオジャーナリスト。デジタルビデオジャーナリスト?

[神田] まぁ基本的に職業分類でいうとビデオジャーナリストって、ビデオを使ってこうやってるんですけれども。基本的にはやっぱり、皆さんが普通に行われているところとの採用リポート。何が違うんだって、ちょっと変わったことがあるよっていうのがリポートがあるでしょうし。ウォルマートTVが面白いらしいっていうと、じゃぁウォルマートTV取材してこようっていうのが。まぁ知りたいと思っていることを知る権利があって、取材させてくれるかどうかは向こうの問題ですけれども、だんだん最近は突撃ジャーナリズムっていうのが報道の自由の名の下においていろんなことができる。まぁそれにいいところと悪いところも当然あるでしょうし、でもやっぱり知りたいと思っていることを知るための術としてのジャーナリストっていうのは非常に便利なツールですよね。逆にそういう意味では、日本ではメディアの大手新聞でないと非常に動きにくいんですけれども、僕はル・モンドに記事を書いていたことがあって、それがすごく動きやすかったりとか、まぁ記事っていっても写真で提供してたりとか、そんなのだけなんですけども、インターナショナルな方がすごく動きやすかったりというか。逆に日本の記者クラブには当然フリーランスは入れてくれないわけで、だから逆に従来のメディアのカウンターのところでインターネットの中で何か起きそうだっていうのをすごく今夢見てるというか、たぶんきっとそうなるだろうと。ある意味でホリエモンとよく似たことをやってるような感じなんですけれどね。

[野島] まぁそうですね。でもあと5年後10年後の新人類が、みんなができるような生き方でもないですよね、だから。

[神田] うん。でもある人達はそういう風に。たとえばこういう好きなことをして食ってけるんだよっていう一つの見本にはなってみたいなみたいな。要するに好きなことをしてるだけではダメだっていうんではなしに、いや、好きなことも徹底してやればいけるんじゃない?っていうところを。一回何か証明していけると面白いのかなぁという感じですね。

[野島] こういう話の敵役の関根さんは。[笑]

[関根] いやいや。[115'05]面白すぎてもうなんか、ワクワクして。私はもうワクワクして聞いてましたけど。ただ言葉はよくわかりませんから理解はしてませんけれども、いやぁでもイマジネーションを刺激するという意味ではものすごく面白いですね。何が面白いかよくわかりませんけど。[笑]変なこといいますけど、地縁主義、自作自農とか、アフェリエイトマンとか。これワクワクしますよね。

[一同] [笑]

[関根] だけどこういう考え方って新個人主義。新個人っていうか、ちょっと逆に先祖返りじゃ別にないけど、古い、ライブニッツっていうモナドロジーの、モナドの概念に聞こえる。まぁモナドという概念は実は非常に難しい概念だから、私もよくライブニッツが何を言っているか本当はわかりませんけども。だけどあの複雑なモナド概念は結構使えるんじゃないかなという風に今お聞きして。

[神田] モナドですか?

[関根] モナド。

[神田] モナド。ほぉー。

[関根] 日本語では単子って訳したりする人もいるそうですけれども。これは単なる単体とかそんな意味ではなくって、とても今短い時間では説明なんかできませんけど。そこに一つの全世界が写ってはいるんですよね。だけどちゃんと、別に壁があるという比喩はダメなので、ただ完全に独立しているんですね。だから完全に閉鎖性なんですよね。閉鎖性なんだけど実は全社会が写っているという、もう非常に言葉で聞くと矛盾した概念なんですけど。だから、ライブニッツの専門家はそれをうじゃうじゃうじゃうじゃ説明しなきゃならないわけですよね。凡人がわかるように。まぁ最近そういう入門書が増えてるから助かるんですけど。そんなモナド主義というか、知らないけど、モナドロジーに、だからむしろそういう非常に天才的な、まぁライブニッツは非常に万能な人だったらしいですけど、理系、それこそ数学から何から、そういう人が早くに考えた柔軟性[?][117'31]っていうんですかね。[聞き取れない][117'34]。今結構ライブニッツって再評価されていると思うんですけど、そういう哲学的な見方っていう。今日最後の方に、やっぱり自分の哲学ポリシーだという、そういう風に自分ってよくクエスチョンマークですけれども、突然自分っておっしゃるのでよくわかりませんけど。ただそういう何か新個人のイメージをちょっと連想したということを一つお話ししておきたいというのと。ちょっと質問があるんですけど、ご説明の中でパッケージ型メディアからネットワーク型メディアっておっしゃったんですけど、このパッケージっていうのとネットワークっていうのがちょっと私の知識では。今の宗教のリ・バイダリゼーションの中で、その問題を人類学的に考えたんですけれども、そのときにパッケージド・レリジョンっていうのを使った人がいるんですよね。イスラムの、今のファンダメンタリスティックなイスラム、あれはパッケージ・レリジョンなんだという言い方をするわけですね。そう考えるとヒンドゥー・ナショナリズムも、ヒンドゥー・リバイタリズムも一種のパッケージ・レリジョンの一つだと。そうやって今考えてるんですけど、それでパッケージを今論文にも使ってるんで、是非ちょっと。それで神田さんがパッケージっていう言葉、もちろん辞書引けばパッケージでありますけどね。もうちょっと、今日のお話の文脈でパッケージネットワークをどういう風に区別されてるのかというのを是非お聞きしたい。

[神田] あのそうですね。[119'28]僕のイメージでいうパッケージとは簡単なことで、パッケージメディアっていわれている、要するにアトム。物質的な入れ物ですね。そういう意味でパッケージは要するにCDといわれているものを皆さんは思うんですけれども、実は音楽の中味なんですよね。だけどもあのパッケージメディアに対してCDという価値観を持ってます。DVDっていうのも、こういうパッケージセットっていうかボックスセットみたいなところで初めて価値観が存在する。でも実際見てるものっていうのはデータしか見てなくて。実際そこから音が出てきてるわけでもなんでもなくて、そこで暗号化されたものが再生されてたりとか。そういったところのメディアというところとの違いがネットワークのところで、ネットワークのメディア、パッケージのメディアっていう形での、実際に入れ物に今はたぶん価値をすごく見いだしてるところがあります。

[関根] ローテクだからどうも私、

[安村] いや、非常に単純な話でCDとかDVDとかVHSとかああいう、もののまさに目に見えるメディアとしてあるのがパッケージメディアで、ネットワークからダウンロードしたり、リアルタイムで見たりするのがネットワークメディア。その違いだけですよ。

[神田] そうですね。そういうことですね。

[安村] あんまり哲学的に[聞き取れない][120'51]なるから。

[関根] 使えないかなと思って。

[安村] いや、あるかもしれません。

[関根] へぇ、そうですか。

[神田] 要するに。

[関根] いや、だから今日の[聞き取れない][121'01]

[神田] 僕はだからパッケージには価値がないと思っている方です。でも今はパッケージになってないとお金が流通しないですね。

[関根] そう、流通しないでしょ。つまり、簡単に言うとね。宗教の商品化ということに非常に関係してるんですね。パッケージレリジョンとかね。商品化っていうのは別に売るという意味じゃなくて、要するに広く流通するという意味で、コモディティになるという。それでもう今日の話はその先ですよね。つまりパッケージじゃ流通するのにある種の限界が。

[神田] ただパッケージがあることによって物質的な満足度はすごく得られるんです。ネットの、ちょっと宗教的に考えると、要するにネットワークっていわれるともっとスピリチャルな部分かもしれないです。ネットワークにものがあると、実はちゃんと同じことが得られるにもかかわらずちょっと不安なんですね。パッケージで持っておきたい。冬のソナタは再放送やってたりとかいろいろやってるんだけれども、でもDVDボックスで持ってないと不安だったりとか。直筆サインで本物じゃないけれども、コピーされてるサインなんだけれども、直筆のDVDボックスには入ってる。で、DVDボックスを買ってくる。で、安心だというのがある。それがずっと10年後も使えるメディアかっていうともうすぐブルーレイのDVDに変わってきて、そのパッケージって今度再生機がなくなってくる時代に。またカセットテープと同じように。あのときにはカセットテープの豪華記念版のなんとかだっていっても、今度再生するメディアが、プレーヤーが実はなくなってくるんですけども。それを考えるとネットワーク上にメディアはいつでもリプレイできる状態にあった方が本当は精神的にはすごく。

[関根] あぁ、こういうのはどうでしょうかね。[122'45]連想ゲームみたいですけど、テキスト化っていうこととパッケージ化。たとえば宗教のテキストはありますよね、コーランのなんか。それを、今のパッケージメディアの形っていうのは非常に要するに宗教のエッセンスがこうなんだっていう、非常にシンプリファイして簡単にして誰でもわかるようにしてるんですよね。だけど本当の宗教っていうのはもう注釈の連続ですよね。だからテキストの、重層化したテキストがあって、いろんな派が分岐しちゃってるわけで、それは今非常にグローバリゼーションの中で非常に単純なイスラムとか単純なヒンドゥーっていうのが広まっているわけですよね。だから今のでいえば、ネットワーク化するということは、もっと注釈を見たいヤツもいるわけですよね。もうちょっと詳しいヤツって。だからパッとコンピュータ上ですると、もっと。いや、この考え方に[聞き取れない][123'39]、説明するより実は本当はこういう歴史があるんだっていうのがパーッとわかってくればもうちょっとネットワーク型ですよね。そういうのは出てくる可能性がある?

[神田] そうですね。セマンティック・ウェブっていうのがそれに近いですよね。一つの文脈でコンテキスト同士を、今までは人為的に結びつけてきたものが、そういう記述されている言語でお互いに検索をしあって、そこで関連性が高いと思ってるもの同士がマージし合うというような形では、非常にそこにネットワーク上の方が似てるのかもしれません。

[関根] たとえばちょっと小さい質問ですけど、今日我々に何も配ってくれないんですけど。こうやって私写すこともできないから、まぁ今録画とってるんですけど。それは戦略なんですか?

[神田] いや。そんなことないですよ。そんなことないです。

[関根] つまり今日のお話なんかもそうです。スピード感があるし、あと残さないとかね。

[神田] いや、あぁそんなことないですよ。あとで。

[関根] [聞き取れない][124'38]の話って。

[神田] いえいえ。ただ準備が周到にできてるわけじゃなくて。それだけです。

[関根] 意地悪な質問ですけど[?][124'49]

[野島] じゃぁ。

[國頭] 先に発表するスライドと配付する資料等忘れることが僕はあります。それは明らかに紙に残ってまずいっていうものは明らかに。それで写真撮られると終わりなんですよね。

[安村] うん。それさっきのパッケージメディアとネットワークメディアの違いと共通すると思うんですけど。パッケージメディアはやっぱりある種あるバージョンが決まってるわけですよね。ネットワークメディアはリアルタイムであるから、たとえば神田さんが配布物配られてもたぶんリアルタイムで聞くさ。さっきこられたときになさってたみたいに、どんどん内容変わってるんですね。話聞きながらとか[?][125'22]。それはネットワークメディアのたぶん違いですね。

[神田] そうですね。たぶん僕今日お話聞いてて、このエジソンの話ちょこっとあとで付け足した、みたいなところも。やっぱりその場のあれによってまだ直せるっていうか。そういうのもありますね。

[野島] 黒石さん。

[黒石] 全然今の面白いディスカッションに関係してなくて申し訳ないんですけど。[125'45]すごく単純なクエスチョンが1つあって。メディア、メディアっていろいろおっしゃってるんですけど、ネットとか。携帯電話なんですけど、やっぱりなんていうか、メディア。もちろん今の話なんか聞くとインターネットが必要だっていうのはすごく。で、人間が世の中で生きていて、そのものを使ってるっていうのは、やっぱりその場所の関係っていうのがすごく、まぁ具体的に、[聞き取れない][126'14]、場所との関係ってどうしても切り離せないっていうのがあると思うんです。特に私面白いなと思ったのは、携帯電話なんですけど、日本の携帯電話って電車の中とかだと「使うな」っていうのが、いつの間にかすごく社会道徳化しちゃって。とにかくどこでも使うな使うなってしょっちゅうアナウンスしたりとかしてますよね。でも香港とかアメリカとか、そんなの聞いたことないんですよね。そういうのって、私すごい日本の社会のリアルタイム[聞き取れない][126'51]の感覚が面白いなと思ってみているんですけど、そういうのどういう風に感じていますか?[?][126'57]ああいうの聞いてると、メールマガジンを検索してみるとか。実際メール送ってればネットでも。[127'05][全体的に聞き取れない]

[神田] たぶんマナーが多いんじゃないですかね。たぶん携帯で喋ってると人もいないのに喋ってるみたいな感情がやっぱり多いんじゃないですかね。

[黒石] やっぱりマナーの違いですかね。

[神田] うん。

[黒石] で、神田さんがやってることって、位置的にいわゆるマナーといわれるものを否定していく。そういうようなところっていうのはありませんか?

[神田] あんまり意識はしてなかったんですよね。だから携帯とかの場合は、これも要するにペースメーカーが乱れるからっていうふうに。

[黒石] でも科学的にいうとあまり。

[神田] ですよね。うん。それとかあとは僕は関西来て思ったんですけど、女性専用車両がやたらと多くて。僕は知らなくて女性専用車両に乗ってたら、なんか視線が違うんですよね。女性専用車両に乗って。別にそれ何も僕が悪いことしているわけでもなんでもないのに、その女性専用車両にいたことだけで。で、気がついてパッと戻って、やっぱり行くとなんか清々したみたいな顔で見られてるのも、何か一つはマナーを。マナーというかそれはペースメーカーに影響を与えないためとか、痴漢にあって被害に遭わないためとかっていうのが何か置き換わってくるマナーみたいなところで。僕は赤信号を守らないんですね。道路でも。いつもニューヨーカーだからっていって。いうんですけれども。ニューヨークではこれが当たり前だからっていうので。これは東京では「えぇ?」っていうのがあるんですけど。でもここで守っててトラックがぶつかってきても、結局はでも自己責任っていうのがアリだと思うんですね。歩道にいて車にひかれたとしても。でも何が怖いって、僕が歩き出したら、勝手に歩いてくっついてくる人がいるわけですよね。赤信号を渡ることよりも、僕が歩き出したことによって赤信号も確認しないで僕のあとを、僕は車を見てるの見てから渡ってるからいいんですけれども、僕のあとを何も考えずにふっとついてくる人が。そっちの方が怖かったりとか。あとはやっぱり日本に帰ってきて一番怖いのは、扉が開いていて、扉が開いてこようとしてる人がいるからこうやって扉を押さえてると、向こうの扉から入ってくるんですね。あれも何かこう。普通はサンキューで入るところが「何あの人?」みたいな形で。これなんかも、何かやっぱり。今までやってきてるところと何か習慣が違うとかなんとかっていう差異があるとすごくこれは。我々すごく日本人的にはちょっと警戒するっていうか。

[黒石] [聞き取れない][129'54]

[神田] いやいやいや。それがあるからたぶん。

[黒石] 今日思ってた疑問なので。

[神田] たぶん携帯にしてもそうなんですけど。

[野島] すみません。ちょっと時間がオーバーしましたので、とりあえず今日はここでクローズさせて頂いて。どうもありがとうございました。川崎さんと神田さん。

[一同] [拍手]

[野島] 懇親会は、これ何?カボチャとプリンっていう店なんですか?[130'17][懇親会の話][130'49]





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